たどたどしい魂のゆがみ|『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』(朝日新聞出版)

評者: 森本孝徳

 

『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』
伊藤比呂美・著

https://higashihonganji-shuppan.jp/books/botanical-picture-book/
ISBN:9784022517869
出版社:朝日新聞出版
発売日: 2021/11/5

 

不世出の詩人によるお経の現代語訳とエッセイをまとめた一書。書名の「いつか死ぬ、それまで生きる」は、仏遺教経の現代語訳「最後のおはなし」からの引句。言語の「會亦當滅」は岩波文庫版(得能文訳註)では「會ふものは亦當さに滅すべし」と訳されているから、「生きる」に重心のかかる伊藤訳のヴァイブスとはいささかのズレがある。 

伊藤比呂美は80年代以後の現代詩をリードしてきた詩人のひとり。われわれ80年代以後に生を享けた詩人にとって、ことのほか大きな存在だ。セックス、妊娠、出産、育児、摂食障害といった、男の詩人があまり選びとってはこなかった生の局面にも「ことば」は存在するのだということを謳いあげ、方法論的には説経節のような語り物を果敢に採用するなど、縦横無尽で開放的な活躍を見せてきた。 

そんな詩人の、ここ十余年の主題が介護と看取りだ。親の、そして高齢の配偶者の。その主題をたどっていく経過のなかで、方法論的に見いだされたものが「お経」なのだろう。母親が寝たきりになったことを発端としてお経の現代語訳を開始し、それらは『読み解き「般若心経」』や『伊藤比呂美の歎異抄』といった書物として花開いた。本書として実を結んだ。

「よっぽど信心があるんじゃないかと、ときどき人に聞かれますが、ありません」と、著者は断言している。お経の現代語訳という仕事の発端であるふたりの親にも、信心はなかったようだ。親たちは「自分が死ぬとは思っておらず、死とはどんなものか、どう死ぬのか、何のイメージも持っておらず、また、持ちたくもないようにも見え」たと、著者は語る。「そんな状態は苦しいだろうから、何かに頼ってみたらいいのにと、娘としては考えたわけです」。死に直面できない苦、独りで死ぬことへの怖れ、それらを信心にはいま一歩届かない場所でとげを抜くように抜いてやりたい。それが本書の(現実的な方面における)課題だ。

「お経というものの詩的な特徴」として、著者が第一にあげるのは「信仰心の思いつめた心、ゆがんだ心」。信仰を持つ者にとって、「ゆがんだ」とは穏やかではないかもしれない。しかし「詩というのも、意識のゆがみをことばの上に表現したものですから」、お経を現代語に訳せば詩のようになるのは「当然のこと」。お経はことば、詩もことば。ことばであるかぎりそれはゆがんでいて、透明ではない。現実や真理を伝える方便として、ことばが存在するのではない。ことばを語ることのなかに「意識のゆがみ」という現実が、「意識のゆがみ」という真理が生成する。

「意識のゆがみ」を、より具体的な相にパラフレーズする絶好のことばがある。「たどたどしさ」だ。お経という「完成にゆきつくための真のことば」を、「完成にゆきつく」という過程じたいの「たどたどしさ」をはつらつと肯定することによって、「わたし」固有のユニークなものにしていくこと。これが本書のもうひとつの(つまり、詩的な方面における)課題だろう。本書に登場する「法華経薬草喩品偈」の現代語訳「大きな木や小さな木」(P.88)には、こうある。 

草や木や茂みや林は
それぞれの分にしたがってそれを受けとめる。
すべての木々はどれもひとしく
大きさや小ささにしたがってのびてゆく
根や、茎や、枝や、葉や、さく花や、なる実の
ひかりも、いろも
一つの雨がおよべば、みなうるおってあざやかになる。
すがたかたちがそれぞれにちがうように
たった一つの雨から
それぞれちがう栄養をうけとってしげりさかえる

現代の詩としては、あまり冴えない「詩」である。このような意識改革を説く啓発書ならごまんとありそうだ。かといって、小さい詩だとも思わない。なんという「たどたどしさ」だろうか。詩は「伎芸、技術、技能」の集積。技には「男か女かわからない、木の枝のような手や足をふりまわしながら、とびはねて」でもいるかのような「たどたどしさ」が必ずつきまとう。しかし、この生においては「たどたどしさ」こそが主役なのだ。かれらは「年を取る」(つまり、聡くなる)肉体の「伎芸」に覆われ、つねに守られながら、土と戦い伸長していく。そんな「現実」のありさまを、読者は応援しないではいられない。

「般若心経」にある「観自在」の意味をたずねると、禅僧の藤田一照師は「うむ、とちょっと考えて、笑っているようなまじめな表情で」こう答えてくれたという。「人々の苦を、共感する存在」(本書より)。

お経の現代語訳が本書の玉なら、同時に収録された二十八のエッセイは玉をつなぐ玉の緒にあたる。中心にあるのは、「共感」のいくつもの具体相、「自然のめぐりと一切の衆生の生きる死ぬる」が詩人の「観察」と「重なっていった」、その記録だ。

「リードの両端で、犬とわたし、ふたりの生きるエネルギーが、ぴっと調和する」一瞬。三十年前に頓挫した熊本・坪井川の「遊水地計画」の、その跡地をおとずれる動植物との交歓。潮の干満にあわせて「いったん遠くに引かれ、海全体に混ぜあわされて、また戻ってきて、今はこの砂浜全体に広がったような気がする」海にまいた遺灰の、その想像された推移のようすに思う「父と母の気配」。「命を終えていく木の周囲に、出たりひっこんだり」しながら、「長い時間をかけて、木を分解して自分の生命に取り込んでいく」キノコ。そんなキノコの「生命」にかぎとれるのが、「死んでいく木をみつめて、みまもって、見届けていく行為」だ。

「共感」の具体的な相を語る行為は、おのずと「死」の諸相にも触れていくだろう。

「日没教の礼拝かと家族から笑われた」ほど「見ないではいられなかった」日没の、「ただ一本の赤い光の線になる。そして何かにひっぱられるように、赤い線が消えてなくなる」姿。カリフォルニアの路上で死んでいる、スカンクの死骸の臭い。しかし、「日没」といういっけん必至の何かでさえ、じつは「大きな仕組みの中の一つ」にすぎない。「それは周囲の一つ一つとかかわりながら、一瞬一瞬、変化していく。そして翌日、また同じことをくり返す。いや、同じようなことだが、決して同じじゃない」。

本書には伊藤比呂美本人による朗読CD(現代語訳のみ)がつく。朗読詩人としても鳴らす、著者の面目躍如といえるふろくだ。般若心経の現代語訳「完成に向かって」では、「空」「不」「無」の訳語として「ない」「不い」「無い」の「絶叫」が採用されており、その声はむしろ「ない」という「ことば」の肌感をありありとリスナーに感受させるだろう。「歌の歌詞は「あ」音にかぎるとつねづね思ってきた」と著者は語るが、「ない」も頭は「あ」音。「無いnai」は「無mu」より声がでる。だんぜんつよい声がだせる。このつよさこそ、書名で「生きる」に重心をかけた詩人・伊藤比呂美の「詩」のヴァイブスである。 

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森本 孝徳(もりもと・たかのり) 
1981年、神奈川県生まれ。詩人。2013年、現代詩手帖賞受賞。詩集に『零余子回報』(思潮社、H氏賞)、『暮しの降霊』(同、詩歌文学館賞)がある。 

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