「メール即レスできない問題」と仏教|『喜怒哀楽のお経を読む』(朝日新聞出版)

評者: 丸尾宗一郎

 

『喜怒哀楽のお経を読む』
釈徹宗・著

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23594
ISBN:9784022631206
出版社:朝日新聞出版
発売日: 2022/6/10

 

メールに即座に返信するのが苦手である。

調子がいいときには素早く返せないこともないのだが、調子が悪いとメールの通知を見ただけでゲンナリし、内容をたしかめるのにも尻込みしてしまう始末だ。

なぜこんなふうなのだろう……と自分の性格にたいして漠然とした不満をためこんできたのだが、このたび『喜怒哀楽のお経を読む』を読んで、メール返信問題には「恐怖」がふかく関わっているのかもしれない、と思うようになった。

本書のテーマは「感情」である。「恐れ、怒り、笑い、悲哀」といった「人間の感情」が、そのじつどのようなものであるかを、仏教の経典や典籍に登場するさまざまなエピソードを参考にしつつ読み解くという趣向だ。

「はじめに」に書かれているところによれば、仏教とは「快にも不快にも支配されない境地」を目指すタイプの教えである。快や不快とふかく関わる「喜怒哀楽」などの感情は、仏教にとってじっくり観察すべき対象なのだろう。本書は、感情というものの内実をよく知る仏教の立場からの「感情の説明書」と言えばイメージしやすいだろうか。

著者は、浄土真宗の僧侶で宗教学者でもある釈徹宗さんだが、本書の本文は、女性のフリーライターが、仏教学者や芸能研究者などさまざまな専門家に話を聞きにいき、対話をしながら学びをふかめるという構成をとっている(ライターや専門家など登場人物はすべて架空の人物)。

対話というかたちをとっているので、話はけっこう行ったり来たりする。仏教の経典や典籍に載っているエピソードがつぎつぎに紹介されたり、結論めいたものが見当たらないままつぎの話題に流れていったり……と、いっけん散漫に見えなくもない。この話題とあの話題はどうつながるんだろうと、思わず立ち止まることもしばしばある。

が、じつはそれが意外な効果を発揮している。なんといえばいいか、自分が日常的にいだく感情に対処するにあたっては、たしかに完結し体系化された理論ももちろん参考になる。しかしその一方で、自分が抱いたのと似たような感情にまつわるエピソードを参照しながら「なるほど、この感情はそういうものだったのか!」とひらめきのような実感が得ることが重要になるケースも多い。エピソード多数の本書の構成は、そうした読み方に適しているように見える。

もちろん全体を整合的に読むという読み方をしてもいいのだろうが、いっけん散漫に見えるエピソードのなかから、自分の感情の奥底に流れる意外な水脈を発見するという読み方をしても、本書から得られるものが大きいと思う。

というわけで、本書で紹介されている感情に関するさまざまな記述を読んでいると、我が身を振り返らされることが多い。

たとえば、「恐れ」や「恐怖」について考える第一章である。著者は『恐怖経(くふきょう)』というお経を取り上げ、ブッダが恐怖を取り除くためにおこなった修行について紹介したあとに、こんな記述をつづけている。

〈ブッダは自分に生じる「恐怖」とじっくり向き合って、ひたすらそれが取り除かれることに専念したんです。
どうすれば取り除かれるのか。それは、身口意、つまり身体と言葉と心を調えて、過剰な欲望を抑制して、ものごとの実相をしっかり把握することだとしていますね〉

なにげない記述で、ともすると読み飛ばしてしまいそうだが、よく読むと自分の「恐怖」との付き合い方、あるいは向き合い方を再考させられる。

まず〈「恐怖」とじっくり向き合って〉という記述。みなさん、ふだんの生活のなかで、恐怖とじっくり向き合う機会は多いだろうか。私はこの部分を読んで、自分はふだん恐怖をできるかぎり遠ざけようとして生きているという事実を突きつけられる思いだった。遠ざけるあまり、それが恐怖と認識できなくなるほどに遠ざけているふしすらあるな……と。

そして行き当たったのが、冒頭でふれた「メール即レス問題」である。メールをすぐに返せないのは、メールに恐怖を抱いているからではないか、という仮説を思いついたのである。

メールを返信するのには、意外にさまざまなプレッシャーがともなう。内容を読み間違ってしまうかもしれないというプレッシャー、うまく返信できないかもしれないというプレッシャー、相手に嫌われてしまうかもしれないというプレッシャー、バカだと思われるかもしれないというプレッシャー……などなど、もろもろのプレッシャーだ。

たぶん私は、このプレッシャーに怯え、恐怖を抱いている。しかし一方で、おそらく無意識のうちにその恐怖に向き合うことを避けていた。メール返信にともなう恐怖を、恐怖として認識していなかったのである。「面倒くさい」「あとでもいっか」といった、軽く、あいまいな言葉を使って、恐怖との対峙から逃げようとしてきた。おそらく、それを恐怖として認めると、プレッシャーに怯えるみっともない自分に向き合うことになるからだ。

興味ぶかいのは、このたび「メール即レス問題」がじつは恐怖に由来するのではないか、という仮説を思いついたあと、これまでなんとなく見て見ぬふりをつづけてきたこの問題にようやくじっくり向き合うことができるようになったという点だ。で、ウソみたいでバカみたいな話だが、この数日、メールの返信が早くなった(また遅くなるかもしれないけど)。

そうか、自分はメールの返信にプレッシャーを感じて怯えていたのか、と思うと、「なんかそんなことを気に病むのもバカバカしいな」と考えられるようになる。あるいは、「そうか、これは恐怖なのか」と気づくと、「恐怖なのであれば、きちんと乗り越えたり、立ち向かったりしなければならないな」と思うことができるようになるのだ。恐怖を認識することで、かえって対象とがっぷり四つに組む覚悟が生まれるといえばいいか。「腹が決まる」といえばいいか。

どうやら無意識に抱いている恐怖というのは、それが恐怖であると認識することで、けっこう対処可能なものになるようだ。上で書いたように覚悟も決まるし、くわえて冷静になれて、恐怖の背後にあるものをきちんと見つめることができるようになるというメリットもあるかもしれない。

ブッダの言っていること(たぶん)が、メールを通して腑に落ちた。

……と、こんなことを考えていくと、上記の引用に出てくる、恐怖を取り除くためには〈過剰な欲望を抑制〉することが大事であるという記述にも得心がいく。

私がひそかにメール返信に感じてきたプレッシャーや恐怖は、おそらく、「ミスをしたくない」「ミスをして無能だと思われたくない」「相手から嫌われたくない」といったたぐいの欲望の結果として生まれたものだからだ。

こうした欲望が「過剰」なものであるかどうか、いまのところ確信は持てない。しかし、たしかにこれらの欲望を凝視し、それがほんとうに必要な欲望なのかを正視するほどに、プレッシャーにも適切に対処できるようになる気がする。

メールの返信一つに、恐怖だとかプレッシャーだとか大袈裟だと思われる方も多いかもしれない。さらに、仏教をこういう自己啓発的な読み方をしてはならないという方もいるかもしれない。しかし、私はメール返信問題について、本書の記述に救われた。ブッダと本書に感謝している。

本書は、こんなぐあいに、恐怖以外の感情についても、仏教がそれをどのように考えてきたか、それをどのように取り扱ってきたかを、さまざまなエピソードを通して紹介している。あなたの悩みについても、「仏教的解決」の道を示してくれるかもしれない。

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丸尾 宗一郎(まるお・そういちろう)  
1990年、大分県生まれ。編集者。
講談社に入社後、FRIDAY、週刊現代、現代ビジネスなどを担当。

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