【前編】智に依りて、識に依らざれ

 

§1.はじめに

2023年4月に刊行した『般若――仏教の智慧の核心――』は、筆者の力不足と、『般若』そのものの性質もあって、私の著作の中でも難解な一冊になってしまいました。そこで、標題の言葉が『般若』を読み解くヒントになるのではないかと思い、ここにその解説文を寄稿させて頂くことにしました。

「智に依りて、識に依らざれ」は、『涅槃経』や『大智度論』を始め、重要な仏典に見られる金言です。この言葉の意味は深く、仏教を学ぶに際して、知っておかれると、大いに助けになると思われますので、以下にこの金言についての私なりの解釈を、分かっているだけの所をお話ししたいと思います。

§2.先ず「識」について

「智に依りて、識に依らざれ」を理解するには、先に、「識」について知っておかれるのが良いと思われますので、「識」について、くわしくお話ししましょう。

次の図1に、(読み下しで)「……学道の人、真(しん)を識(し)らざるは、唯だ、従前の識(しき)神(しん)を認むるが為なり……」とありますが、これは白隠禅師のご著書の一つ『毒語注心経』の一部です。

毒語とは、毒づきながら称(たた)えると言う意味ですが、そこにある「識神を認める」という言葉がキーです。識神を認める、即ち、「識」が絶対的に重要なものだと思い込んでいる、そのため学者どもには、真実が分かっていないのだ! と、白隠禅師は言っておられるのです。

つまり、「識」というものは、曲者(くせもの)だということです。それで以下に、「識」について考えて行きましょう。

§3.夢

ここで、一瞬、夢という空想の世界へ入って見ましょう。 

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気がついたら、こんな夢を見ていたとします。 

無限に広がった水のようなものの中に、ポツ・ポツ・ポツ……と、濃いところが出来始め、それが次第に広がり、また方々で同じような動きが現れ始め……。 

目覚めて思ったことは、生物発生はこうやって始まったのかも知れぬ、ということでした。

それら濃い部分が、さらに濃いところと薄いところに変化して、核酸や、細菌を食べるウイルスであるバクテリオファージが出来たのかも知れません。

この見方を拡張したのが、の図2です。 

 

この図を見ていると、宇宙全体に、形作るハタラキというか、力のようなものがあると思わずにはいられなくなります。そのハタラキを「形成力」と呼ぶことにしましょう。この形成力は宇宙の根本的な力で、常にハタラキ通しなのです。しかもそのハタラキには、出来た存在が結合すれば、それまでには見られなかった、新しい機能が発現するという特性が見られるのです。私たち人間も、こうして生まれたのかも知れません。 

§4.心から仏教へ

だが肉体発生はそれで分かりますが、それに宿った「心」はどのようにして生まれたのでしょうか? これは難問中の難問です。

大文豪ゲーテは、「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かにあがめることである」との名言を残しています。

「心」はどのようにして生まれたのでしょうか? という疑問はこれにピッタリです。仏教の故事では達摩(だるま)と慧可(えか)との「心不可得(しんふかとく)」の問答もあります。達摩大師が弟子の慧可から「私は心が安らかではありません。どうぞ心を安らかにして下さい」と頼まれ、「よし安らかにしてあげよう。おやすいことだ。その心を持って来なさい」と答えたところ、慧可は、はたと困ってしまいました。

この時慧可は、心を持ち出そうと思っても、自分の何処にも持ち出すことが出来るような心はないことに気付いたのです。つまり、「心をもって心を求むるに不可得」――「心で心を探し求めましたが、遂に心を得ることはできませんでした」と答えたと言うのです。それを聞いて達摩大師は、「汝の心を安んじおわんぬ」と言われた、という故事です。

ゲーテの名言と仏教の故事から分かるように、追求は止(や)めてあがめるのがよろしい。ここから宗教的世界に入ります。

宗教的世界のひとつに仏教がありますが、仏教では、「識(しき)」と「般若(はんにゃ)」の区別をはっきりさせなければ、その教義は分かりません。

§5.「識」は「区別」から始まる

「識」をよく知るには、「識」の世界を飛び出し、「識」を客観視する必要があります。

そこで下記の図3をご覧頂きたい。これは書斎の「左側面図」の、つもりです。



普通、我々は、A、とかA’、即ち、【壁】の前(右)に【机】が置かれ、その前(右)に【椅子】が置いてある、というふうに見ています。だが、この見方は絶対唯一のものでしょうか?

図4のようには認識できないのでしょうか? 図4のBのように認識するとは、【机】の前(右)半分と、【椅子】の前(左)半分とが同一体の一部と見る見方です。「そんな見方をして何になる?!」と、言われそうですが、これが「識」への分かり易い入り口なのです。もちろんBのように認識した場合、それを表現する言葉は、今のところ、ありません。

このように我々は、決まり切ったと思い込んでいる認識の上に、生きているのです。

つまり、全世界は図3の遙か左から右へと、空気も含めて、物質的にはつながっており、密度に着目して観れば、ただ、密度が大きいか小さいかの違いです。我々はその密度が大きい部分を特別扱いして区切り、そこに机とか椅子とかという言葉を当てはめて、日常暮らしているのです。そして、Bのように認識した場合、それを表現する言葉がないほど、「識」の世界に入り浸っているのです。Bのような認識ができれば、それは、「識」の世界から抜け出る第一歩なのです。

§6.「識」の要約

ここで、以上をまとめておきましょう。

先に、濃い(密度が大きい)ところと薄いところが出来たと言いましたが、濃いところの方が見え易いので、人間はその濃いところだけに注目して区切るのです。

この濃いところだけに注目し、区別し、区切ることが「識」です。識別の「識」です。そして我々は、この区別したものに「名前」と言うものを付けるのです。こうなると、区別したものは固定化されて捉えられます。ところが、


(1)実体は「諸行無常」で変って行くので、言葉(名前)では追従できません。つまり、形成力は、一刻も休まずハタラクので、注目した濃いところも、変化し続けています。しかし、名前というものは固定的ですから、その休まずに変化し続けるものの変化を表すことは出来ません。名前がその対象を正確に表現し得たと思った途端、変化し続けるものは変ってしまっています。(岩のように普通には変化しないと思われているものでも、長い眼で見れば変化しています。)

(2)また、濃いところだけに注目するので、薄いところが欠落し、実体は全世界中がつながっているのに、そのつながり、関係が、見えなくなっている。つまり「縁」が見えなくなっているということです。

要するに、名前にくらまされて、人間はその名前(広義には文字や言葉も含む)が真実(正確な内容)を表していると思ってしまうのです。この頭脳のハタラキが「識」なのです。

(3)白隠禅師が、その著『毒語注心経』でおっしゃっている、
「学道の人、真を識らざるは、唯だ、従前の識神を認むるが為なり」
とはこのことです。(「識」は悪神扱いになっているのです。)


つまり、「識」は真実を表してはいない、と言うことです。

仏教は、この点に気付いたのです。そして幸運にも真実を観(み)る眼を開くことが出来ました!! この眼が「般若(はんにゃ)」(=「智」)なのです。

「般若」と「識」は、比較すると分かり易いので、ここに表を示しておきます。

「般若」は、「識」とは、ほぼ反対の性格のもので、この表のようになります。

§7.付記

1)「諸法実相」
上記で「真実を観る」と言いましたが、仏教的に言えば「諸法実相」を観るとなります。ただこれは世俗諦の言い方で、本当は、分別は、後得分別智(ごとくふんべつち)(後述、般若の一部)でなされたもの以外は「識」ですから、常に虚妄なものです。
分別するものも、されるものも無いというのが、空・無です。

2)六識
原始仏教では、識の活動は六種に区別されています。即ち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識です。このうち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識は、感覚的な認識で、感覚的認識は、現在の対象のみを認識し、過去や未来の対象を認識することはありません。さらにこれらは言葉を必要としません。例えば眼識が赤色を認識しても、幼児のごとく言葉を持たないものにも、「赤」という認識はありますが、それには赤色であるという判断はありません。赤色という認識は、「赤色」という言葉を必要とするのであり、その言葉は記憶の中に保存されていて、それを引き出して、眼前の赤の認識と結合して、「これは赤色である」と判断するのは、眼識ではなくして、第六の意識です。(平川彰著作集第1巻、『法と縁起』、春秋社、第五章より抜粋)

長々と回り道をしましたが、お分かり頂けたでしょうか? あと少しで最後ですから頑張ってください。(つづく)

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森 政弘(もり・まさひろ) 
1927年(昭和2年)、三重県に生まれる。名古屋大学工学部電気学科卒業。工学博士。東京大学教授、東京工業大学教授を経て現在、東京工業大学名誉教授、日本ロボット学会名誉会長、中央学術研究所講師等を務める。ロボットコンテスト(ロボコン)の創始者であるとともに、「不気味の谷」現象の発見者であり、約50年にわたって仏教および禅の勉強を続け、仏教関連の著作も多い。紫綬褒章および勲三等旭日中綬章を受章、NHK放送文化賞、ロボット活用社会貢献賞ほかを受賞する。
おもな著作に、『機械部品の幕の内弁当――ロボット博士の創造への扉』『作る! 動かす! 楽しむ! おもしろ工作実験』(ともにオーム社)、『今を生きていく力「六波羅蜜」』(教育評論社)、『親子のための仏教入門――我慢が楽しくなる技術』(幻冬舎新書)、『退歩を学べ――ロボット博士の仏教的省察』『仏教新論』『般若――仏教の智慧の核心』(ともに佼成出版社)等があり、共著書に『ロボット工学と仏教――AI時代の科学の限界と可能性』(佼成出版社)等がある。

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