【後編】智に依りて、識に依らざれ

 

(「智に依りて、識に依らざれ」前編はこちらから)

§8.生得(しょうとく)の般若

われわれには、生まれながらにして、弱い般若が与えられています。乳児が、言葉を知らなくても、お腹が空けば冷蔵庫の方へハイハイして近づいて行きます。さらに幼児ともなると、自分で扉を開けて、ミルクならミルク、ジュースならジュースを取り出して飲もうとします。その時取り上げれば、怒り出すか、泣き出すでしょう。これは弱い般若が与えられている証拠です。この弱い般若を生得の般若と言うのです。

われわれは、修行によって、この生得の般若の力を強め、「諸法の空(くう)」が納得出来るようになるのです。

§9.「諸法の空」を納得する

仏教では、「空(くう)」は、非常に大事な概念で、いろいろの心や物理的存在(つまり、諸法)の本性が、「空」であることを納得することは、仏法を身に付ける必要条件ですが、それは「智」、すなわち「般若」によらなければなりません。

分析的に「空」を知っても、それは理屈で論理的に知った知識に過ぎず、「般若」としてのハタラキが出ません。

「般若」は、どうしても、修行を通して、直観的・総合的に体得する必要があります。そうしてこそ、はじめて、この宇宙全体が無常、すなわち、生きて、流動変化を繰り返していると言う姿が納得できるのです。

§10.「智」とロボットコンテスト

私は、大学で教鞭を執っていた頃、国公立学校では宗教教育禁止ですから、学生達に、この「智」を如何にして身に付けさせるか苦心しました。「智」は仏教だけでなく、発明・発見にも絶対に必要なものですから。

それで、ともかく夢中になって我を忘れることをさせようと、苦肉の策として考えついた方法が、ロボットコンテストだったのです。

お陰で、NHKテレビにもバックアップしてもらい、ご承知のような今日の盛況を見るに到ったのです。

§11.「智」は「仏智」で、完璧

ここまで、「智」とか「般若」とかと表現して来ましたが、この「智」は、言わば「仏の智慧」「仏智」です。完璧な「智慧」です。これは正式には、「根本無分別智(こんぽんむふんべつち)」と言います(「むふんべつ」、で、「むぶんべつ」と濁りません)。

その完璧さの第一は、「智」の中には「識」も含まれているということです。すなわち、身近な例を示せば、

「智」の場合:車が走るにはアクセルとブレーキとの両方が(安全のために)必要
「識」の場合:車が走るにはアクセルで、ブレーキは止めるためのものだから不要

となるのです。

確かに、「識」の場合も理屈は正しく、その意味では、間違いではありませんが、次元が低いのです。

ここで気付いて頂きたいことは、「智」の場合は、反対の「識」も含んでいる、「走る」の中に反対の「止る」を含んでいると言うことです。これが「智」の完璧なところのひとつです。

完璧さの第二は、「智」は無分別智と言うことです。

この意味には、(一)分別しない智慧、と言う意味と、(二)無分別でものをみる、と言う意味があります。(一)は、無・空を観(み)る智慧で、(二)は存在の完全平等を知る智慧です。この(二)は(一)が得られてから発揮するので、後得分別智(ごとくふんべつち)とも言います。

「智」は分けると、この「根本無分別智」と「後得分別智」になるのです。

この後得分別智について面白い歌があります(下記)。

分別も 分別なきの分別は
分別ながら 分別でなし

このような「智」によって、はじめて、時間的には、流動・変化を基調とするこの宇宙の真実の姿、「諸行無常」を、また空間的には、全ての存在が縁起で関係し合った「諸法無我」の姿、合わせて「諸法実相」を、知ることが出来るのです。これは「識」だけでは不可能で、そのためには実践的な修行が不可欠と言うことです。

簡単に言えば、智でみて判断すれば、間違いはなく、識では間違うこともある、と言うことです。

そして、智を養うには、修行が必要、と言うことです。

§12.修行と「念(ねん)・忘(ぼう)・解(かい)」

最後に、坐禅・止観(しかん)・念仏・唱題・阿字観(あじかん)のような、本格的な仏教の修行ほどにはゆかないとしても、その幾らかは効果があった筆者なりの精神集中について、お話ししておきましょう。

それは、「念・忘・解」のプロセスです。

これは、
①強い問題意識を持って、その解決方法(解)を懸命に考え抜く。「念」である。
②それで解が得られれば良いのだが、ある程度難しい問題になると、「念」だけでは「解」は得られず、そのことを忘れてしまう時期「忘」が必要。この「忘」の間に、意識上はその問題を忘れ去ったかのように思われるが、意識下では熟成していて、
③何らかの外的な刺激、石ころに当たるとか、光が差し込んだとか、によって、パッと解がひらめき得られ、小躍りして喜ぶ(これを「解」と言います)、
というプロセスです。

試みられることをお勧めします。

以上で私のつたない説明を終わらせて頂きます。(完)

東京工業大学 名誉教授
森 政弘

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森 政弘(もり・まさひろ) 
1927年(昭和2年)、三重県に生まれる。名古屋大学工学部電気学科卒業。工学博士。東京大学教授、東京工業大学教授を経て現在、東京工業大学名誉教授、日本ロボット学会名誉会長、中央学術研究所講師等を務める。ロボットコンテスト(ロボコン)の創始者であるとともに、「不気味の谷」現象の発見者であり、約50年にわたって仏教および禅の勉強を続け、仏教関連の著作も多い。紫綬褒章および勲三等旭日中綬章を受章、NHK放送文化賞、ロボット活用社会貢献賞ほかを受賞する。
おもな著作に、『機械部品の幕の内弁当――ロボット博士の創造への扉』『作る! 動かす! 楽しむ! おもしろ工作実験』(ともにオーム社)、『今を生きていく力「六波羅蜜」』(教育評論社)、『親子のための仏教入門――我慢が楽しくなる技術』(幻冬舎新書)、『退歩を学べ――ロボット博士の仏教的省察』『仏教新論』『般若――仏教の智慧の核心』(ともに佼成出版社)等があり、共著書に『ロボット工学と仏教――AI時代の科学の限界と可能性』(佼成出版社)等がある。

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