能に描かれた念佛

 

はじめに

大津市伝統芸能会館では、年間のテーマ「能に描かれた念佛」をもとに4つの演目が取り上げられています。念仏「南無阿弥陀仏」による往生と、歌舞の菩薩が来迎して、極楽浄土を讃嘆する内容です。このうち「誓願寺」「清経」「當麻(たえま)」の演目を終え、残るは新春公演の「百萬」です。何のための念仏であり、念仏の効果は何なのか、それぞれの共通点や相違点の概略を先に述べ、そこから各演目の特長に入りたいと思います。

まず、「誓願寺」の主人公は平安時代中期の歌人・和泉式部です。江戸時代に編まれた『一遍上人譜略』によると、一遍上人が一条小川の誓願寺を訪れ、賦算の札を人々に授けているところで、ひとりの女(和泉式部の亡霊)と出会います。彼女は扁額の文字「誓願寺」を一遍上人の手で「南無阿弥陀仏」と書き改めるよう頼むと、近くの石塔(式部の墓)を示し、自らが和泉式部であると仄めかして消えてゆきます。やがて上人が「南無阿弥陀仏」と書きつけると壮麗な世界が開け、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れるのです。

「清経」では、平清経が武将の宿命として死後は修羅道に堕ち苦しむ様を見せますが、世の無常を悟った清経は往生のため自ら入水する前に称えた十念によって、最後にはその魂が救われます。この十念とは、南無阿弥陀仏を十回称えることです。

「當麻」の主人公も、和泉式部と同じように歌舞の菩薩として登場します。主人公は當麻曼荼羅を蓮の糸で織ったという伝説のある中将姫です。和泉式部と異なる点は、中将姫の場合、往生は全く念頭になく、むしろ生身(しょうじん)の阿弥陀仏に出会い拝したいという大願のために山に籠り、念仏三昧の日々を送ります。和泉式部・中将姫両者の共通点は共に物語の後半で歌舞の菩薩となって舞を舞い、極楽浄土や念仏を讃嘆することです。

一方、「百萬」では念仏の扱いが大きく変わり、京都の清凉寺(嵯峨釈迦堂)で大勢で一斉に称える融通念仏が描かれます。それは一層、音楽性を伴うものです。

主人公の百萬は生き別れた我が子を探しに群衆が集まる大念仏の場を訪れます。中世の芸能者である女曲舞(おんなくせまい)の百萬は、女物狂(おんなものぐるい)として大念仏に誘い出され、念仏会の音頭を取ることになります。踊り念仏の後、清凉寺の本尊に我が子との再会を祈念した百萬は、知らぬままに法楽の舞(神仏に奉納する舞のこと)を舞い、それが機縁となって、我が子との再会を果たします。

ここからは、各シテの人生にまつわる念仏について解説致します。

誓願寺

能「誓願寺」は、念仏により誰もが浄土へ往生できるという浄土思想の世界を、芸能化した演目といってよいでしょう。多くの能で脇役として登場する僧は名前の無い“諸国一見の”旅の僧が多いのですが、ここでは念仏往生をあまねく広めた一遍上人です。

『一遍上人譜略』と『洛陽誓願寺縁起』にあるように、一遍上人は集まった群衆に「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」と書かれた札を授けます。それは「南無阿弥陀仏」を称えると誰もが救われることを意味しています。

一遍上人はその群衆の中にいた、或る女人と出会います。この女人が和泉式部の仮の姿です。やがて一遍上人にその正体を明かした和泉式部は、浄土の歌舞の菩薩となって、「南無阿弥陀仏」と書かれた扁額を讃えます。

多くの能では、僧が回向によって、主人公を成仏させるのですが、この「誓願寺」では一遍上人が菩薩の浄土讃嘆を体験する形をとっています。

ところで、和泉式部がなぜ歌舞の菩薩として浄土に往生したのか不可解なことでしょう。歌舞の菩薩は、極楽浄土で歌舞を演ずる芸能的な菩薩のことです。中世、和歌は仏が説法する妙文と同様に捉えられていて、仏教で用いられる呪文の一つの陀羅尼であると讃嘆されてきました。和泉式部が和歌の名手あるがゆえの功徳によって菩薩として往生できたのです。ただ、一条帝の妃・彰子に仕えた紫式部や定子に仕えた清少納言もいるのです。そんな状況のなか、和泉式部に白羽の矢が立ったのは、我が子の小式部内侍を亡くした苦しみゆえ、ひたすら誓願寺で念仏三昧を行った仏教帰依が一因と思われます。

女の身で書写円教寺、石清水八幡宮へ尋ね行くほどの篤信者だった和泉式部に、八幡大菩薩が霊夢に現われ「誓願寺の阿弥陀如来にすがるように」と告げられたのです。それ以降、誓願寺で日夜朝暮参詣し 念仏ですがる式部の姿に帝妃の彰子と父の藤原道長が東北院に小御堂(こみどう)を式部に与え保護しました(1030年頃)。誓願寺に籠って出家し、授けられた法名は専意(せんい)。小御堂から日々朝暮通いつめ、やがて女人ながらついに極楽往生を遂げました。

そして往生した和泉式部に、一遍上人が二百年後の健治元年(1275)に誓願寺で出会うわけです。互いのパワーの相乗効果で妙味ある浄土が出現したのは当然と言ってよいでしょう。式部の頼みに感化された一遍が「誓願寺」と書かれた扁額を「南無阿弥陀仏」の六字を書きつけた額に取り替えると、異香(いきょう)薫じて花降り下り、歌舞菩薩の音楽である笙歌(せいが)が聞こえ、歌舞の菩薩(和泉式部)の来迎を目にし、南無阿弥陀仏の六字名号の額を讃嘆したというのです。

舞台では、弥陀の悲願を鑽仰した和泉式部が菩薩となって歌舞を披露します。それがすなわち仏事として捉えられています。具体的には「序之舞」という非常にゆっくりとした気品のある舞を舞います。舞台は伴奏の太鼓によって音楽的な華やかさを増し、身にまとった舞衣(まいぎぬ)のきらびやかな趣きや、頭に戴いた綺羅綺羅しい天冠は圧巻です。また能面は「増女」という神秘的な面立ちのものをかけ、壮麗な浄土の世界が表現され、観客も夢幻のまま舞台が終えるのです。

誓願寺は天智6年(667)に天智天皇(626-671)の勅願で創建され、大和にあったものを桓武天皇(737-806)のときに山背の深草に移され、鎌倉時代には一条小川の元誓願寺町に移されています。この能の作者は『一遍上人譜略』『洛陽誓願寺縁起』『和泉式部縁起』(誠心院蔵)などを典拠にしたようですが、両縁起の最終成立が江戸時代あたりに鑑みれば、むしろ能「誓願寺」が和泉式部の縁起に影響を与えたのではないかと考えられそうです。ここに宗教と芸能の深い相互関連があるように思えます。

清経

「清経」の主人公、平清経は周知のように『平家物語』に登場する平重盛の三男です。武将は戦いに明け暮れ、殺生が避けられず、死後は修羅道に堕ちて永劫の苦しみを受けるのが当時の通念です。それでは清経はどのように成仏したのでしょう。果たせるかな清経は世の無常を悟り、戦のさなかの船中で十念を称えて入水します。とりわけ、その回想シーンは人気があり、「南無阿弥陀仏迎えさせ給へ」と入水するまでの心情を切々と語り、緊迫した修羅の様子も見せ、心静かに十念を称え「仏果を得しこそ有難けれ」と謡って、あわれが拭えない舞台を終えます。このシーンは仕舞や舞囃子として、プロに限らず素人においても再々舞われています。

この「清経」は、永正2年(1505)粟田口勧進猿楽で演じられ、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱を経験した当時の観客には深い感動があったでしょう。

なお能装束の紋様にも仏教的な意味を表し、一例に亀甲紋や青海波を地にした円い源氏車を散らした紋様があります。源氏車は釈迦が説法して歩いた足跡と、教えの広まりを表したとされています。また、死後無限に生死を繰り返す輪廻転生の象徴でもあり、鎮魂の修羅能に適した紋様といえましょう。

當麻

能「當麻(たえま)」は、當麻曼荼羅を織りあげた中将姫が主人公で、前述の能「誓願寺」とは異なる観点から念仏が捉えられています。脇役に熊野参詣を終えた念仏行者を配していて、名前はないものの、史実から実際に當麻寺を訪れた一遍上人を充てる見解もあり、阿弥陀の力を身に付けたパワフルなシテとワキが登場する点は「請願寺」と同様です。

能の前半は化尼が化女を伴って現れます。その正体は阿弥陀如来と観音菩薩です。化尼と化女の姿で物語の主人公がなしたことを代理で語るために現われ、中将姫は、能の後半に歌舞の菩薩となって登場し浄土の舞を見せるのです。

ともあれ、能の冒頭、化尼と化女が「釈迦如来は衆生に道を教え」、「阿弥陀如来は念仏の声を聴いて衆生を極楽へ導き迎えてくださる」、「ただ一心に念仏を称えましょう」などと言って、仲の良いお喋りの様に舞台に登場します。次いで両者は、中将姫が蓮の糸を五色に染めた経緯を語り、その後は物語の中心テーマを語る場面となります。 このときには化尼と化女は座して、地謡の謡によって語られる中将姫が体験した奇跡の物語を昔懐かしく聞くような印象を与えます。それは前述したように、中将姫が念仏三昧によって生身の阿弥陀仏を拝した大願成就の物語だからです。

2023年11月に上演された際は、化尼の装束は茶地金糸亀甲つなぎと鶴菱紋で、顔全体を包んだ花帽子をかぶり、神秘的な雰囲気が漂いました。

能の後半、中将姫の出現を待つ念仏僧たちの謡、「歌舞の菩薩の目のあたり、現れ給ふ不思議さよ」の「不思議」あたりで、囃子方の太鼓がパーンと一際大きく打ち込み、一気に舞台の様相が張り詰め何かが起こる予感がします。ちなみに、その後の、ポツポツポツという太鼓の音色は、人ではない何者かが異界から訪れる跫音(あしおと)を表現しているそうです。

こうして、歌舞の菩薩となった中将姫が現れ出た時に、「只今夢中に現れたるは中将姫の精魂也」と謡います。このあと舞われる「早舞」という爽やかな舞は見どころの一つで、極楽世界で菩薩となった中将姫の喜びを通して法悦的な情緒が漂うようです。

ところで中将姫は、『洛陽誓願寺縁起』に二度ほど登場します。誓願寺の本尊の造立のときと、門弟の性達坊が偶然二人の老尼に出会うときです。一人は喜蓮、一人は専意と名乗り、喜蓮は中将姫の佳号、専意は和泉式部だと気付いた頃には既に姿を消していたとあります。

百萬

最後は「百萬」です。嵯峨清凉寺の釈迦堂で奉納されている融通大念仏会に、女物狂となった百萬が現れます。彼女は大和の西大寺で生き別れた我が子を探すうち、物狂いとなっていたのです。百萬は曲舞舞いと呼ばれる芸能者であり、融通念仏会の音頭を取り、多々舞を見せ、清凉寺の本尊に祈念してやっと我が子と再会を果たします。

この能の作者である観阿弥は実在の百萬と縁があります。彼は「南都の百萬」とよばれた「乙鶴」という曲舞舞いを参考に“クセ”と呼ばれる拍子を取り入れ、これまでの只謡の芸風を刷新し、都で人気を博しました。いわば百萬に恩がある縁です。観阿弥の子・世阿弥が書き残した『五音』という文献に“百萬”の名が見え、また他の文献『申楽談儀』では「観阿、節(フシ)の上手也。乙鶴がかり也」とあります。なお、融通念仏中興の祖・円覚上人道御(1223-1311)も拾われた子である事に百萬自身が縁を感じる等、実在した往時の百萬と作者の観阿弥の思いが詰まった能といえます。

この能は夢幻能のような亡霊が主人公となるのではなく、生きている人間百萬が主役です。浄土往生への信仰や憧憬を描くのではなく、現実世界での出来事が展開され、融通念仏の合唱を背景とし、そこに芸能要素が盛り込まれた劇的な結果をもたらすのです。

百萬が訪れた嵯峨清凉寺釈迦堂の融通大念仏会は、弘安2年(1279)円覚上人道御によって開始されました。「洛中辺土の道俗男女雲の如くにのぞみ、星の如くにつらなりて群集した」と『清凉寺縁起』にあり、民衆が心の安堵を求めていたことが伝わってきます。融通念仏の融通は、同時同所の多人数による念仏が、時間と空間を隔てた多人数の唱える念仏と同じであり、その功徳を融通し合い、互いに往生にも寄与するといいます。その意味合いを創始者良忍は「一人一切人 一切人一人」と表しています。

つまり、大勢で称える音楽的要素の強い念仏となった融通念仏は町や村ぐるみの繋がりを生み、一体感やゆるぎなさをおのずと培っていったのでしょう。その様な雰囲気を持つ融通念仏会に百萬が我が子を探しに訪れたのです。融通大念仏会の群衆は、温かい目で物狂いの百萬を見守っている雰囲気が見え、念仏そのものが互いをつなぐ絆にもなり、一体感を伴って民衆に広く受け入れられたと窺えます。

それは、比叡山の円仁(794-864)が、唐の長安で学んでいるとき、僧達が町の民衆に分かり易く念仏に節を付けて説く様子に心打たれ、その音楽的念仏を847年に比叡山に戻り「常行念仏」として広めた円仁の出来事が根底にあるからと思えます。

ところで、物狂いとなった百萬は、能の中で嵯峨清凉寺融通念仏会を訪れたとき、笹を携えています。この笹は能「百萬」に限らず「狂女」を描いた一連の能の主人公が手にするアイテムです。物狂いの象徴的アイテムで狂い笹ともいわれます。恋ゆえに心を乱す演目や、子との別れから気を病む演目などに多々みられます。

そんな百萬が大念仏会の音頭取りをし、「南無阿弥陀仏弥陀頼む」「親子の道にまとわりて、なおこの闇晴れやらぬ。(中略)信心致すも我が子に逢はむためなり」と舞い謡います。もし我が子がいれば気付いて欲しい母心が窺えます。ここは車の段・笹の段という名称の付く舞が続き、「弥陀の力。頼めや頼め、南無阿弥陀仏」と飛び散る詞章にも哀れが漂います。

さらには「法楽の舞」を舞うに際し、群衆に「囃して賜べや人々よ、百や萬の袖を見給え、我が子の行方祈る也」と告げます。それでも我が子が見当たらず、「これほど多き人の中になどや我が子乃なきやらん。あら我が子恋しや(中略)南無釈迦牟尼仏」と合掌する百萬に、観客も共感し感情移入することでしょう。

この後にようやく里人が「これこそおことの尋ぬる子よ」と名乗るのです。「ご本尊は衆生の為の父なれば、母諸共にめぐり逢う。法の力ぞありがたき(中略)都へ帰る嬉しさ」という場面が強烈です。百萬自身にとっては 血を吐く思いを秘めつつ、念仏と曲舞によって我が子と会えたハッピーエンドで、且つ華やかで見ごたえある舞尽くしの能です。

ちなみに「百萬」を初めて演ずる能楽師の方々は奈良の百萬寺(西照寺)に参詣されると住職さんから聞いたことがあります。この寺の向いに旧フジタホテルがあり、その場所のみが「百萬屋敷」という小字(こあざ)だそうです。

最後になりましたが、この「能に描かれた念佛」のテーマのうち、残す演目は令和6年1月6日(土)の「百萬」のみとなりました。世阿弥がこのような能を作ったのは最大の後援者である足利将軍の義満や義持、義教向けのみでなく、民衆が感動し琴線に触れる姿を通して世阿弥自身が心のやすらぎを覚え、現世における苦しみから逃れる為であったかもしれません。

またこの時代仏教が民衆の心をつかんだもう一つに、いろんな辻々で居士(こじ)たちが念仏を芸能で説く、いわば仏教と芸能が身近だったという理由があります。居士は、仏教の在家修行者です。「自然居士」や「東岸居士」「放下僧」などの能にその様子が窺えます。興味のある方は、機会があれば御覧になってください。ありがとうございました。               

参考文献:
謡本「清経」「誓願寺」「當麻」「東北」「百萬」(訂正著作者 廿四世観世左近)
梅原猛『京都発見(二)—路地遊行— 』、新潮社、1998年
表章・加藤周一『日本思想体系 24 世阿弥・禅竹』、岩波書店、1974年
伊藤正義 校注『謡曲集』、新潮社、1983年
大槻文蔵・監修/天野文雄・編集『世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ』、大阪大学出版会、2016年
長島尚道『絵で見る 一遍上人伝』、清浄光寺(遊行寺)内、2002年
塙保己一 編『続群書類従』28の上「釈家部」、続群書類従完成会、1923-1926
尾本頼彦『世阿弥の能楽論「花の論」の展開』、和泉書院、2010年
野村四郎・北村哲郎『能を彩る文様の世界』、檜書店、1997年 

 

能に描かれた念仏 第4回 新春公演(主催:大津市伝統芸能会館)
開催日時:2024年1月6日(土) 14時開演
会場:大津市伝統芸能会館
狂言『福部の神 勤入』(大蔵流)
能『百萬 法楽之舞』(観世流)


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西田 美惠子(にしだ・みえこ)  
1949年、兵庫県生まれ。教職を経て2009年より赤穂市文化会館で勤務し、現在は赤穂市文化とみどり財団古典芸能研究相談役。
赤穂市に、赤穂市坂越の大避神社に、世阿弥が『風姿花伝』に能楽の祖と伝える秦河勝を祀る大避神社があります。河勝に関心を持った故梅原猛による新作能「河勝」(2010年)・次作スーパー能「世阿弥」の赤穂公演が行われ、また国立能楽堂協賛でコロナ前まで能楽師による小学校での能楽体験講座が10年程催行されました。聖徳太子作の三面の内、天の面を河勝が携えてきた伝承や調査したことが江戸期の『播磨鑑』にあり、今なお能楽師が訪れ能が舞われています。市発行の文化情報誌に能が長年紹介され、また「秦氏を学ぶ会」における発行誌では旧赤穂郡の秦氏伝承と合わせて、奈良・京都や丹波等の古猿楽などが見られます。

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