仏教が問う、生きる意味

 

生きる意味を探しても得られない(第五偈)
 

無花果の花を探す人が何も見付けられないように、
存在においても意義(実体)を
見出せないことを発見した修行者は、
蛇が脱皮するように、
この世とかの世とをともに捨て去る。

ヨー ナーッジャガマー バヴェース サーラン
ヴィチナン プッパミワ ウドゥンバレース
ソー ビック ジャハーティ オーラパーラン
ウラゴー ジンナミワ タチャン プラーナン

※編集註:表記の都合上、書籍内にあるサンスクリット語は省略しています。

この偈のポイントは「ヨー ナーッジャガマー バヴェース サーラン」です。これは「諸々の生存状態の内に堅固なものを見出せない」という意味です。

〈バヴェース〉生存という状態を意味するバワの複数形で「諸々の存在においては」という意味です。
〈サーラン〉英語のエッセンス(essence)と同じで「意義(実体)」を意味します。  
〈ナーッジャガマー〉見出せない

バワは「存在」という意味でもあります。つまり、「生きる」ということです。すべての生命は、人生は楽であろうが苦であろうがお構いなしに、生きることに必死なのは、なぜでしょうか? なぜ、そんなに生命は生きたがるのでしょうか?

その疑問については、一瞬も考えないのです。

それで気を紛らわすというか、ごまかしてポイントをズラしてしまう。これを上手にやるのが子供たちです。

子供に答えられない質問をしたり、答えたくない質問をしたりすると、子供は質問を見事にごまかします。幼い子でも同じです。「なんで、あなたはしょっちゅう泣くの?」などと何か聞いてみて下さい。問題を驚くほど違う方向にもっていってしまいます。子供は、そういうことが上手なのです。

「存在」は何ゆえに生きたがるのでしょうか。私たちはその問題には答えないのです。問題はさておいて、買い物をしなければ、洗濯をしなければ、学校へ行かなくては、会社に行かなくては、ローンを払わなくては、などと、そうやって「生きるために必要な道具」にとらわれているのです。

「なぜ?」ということは、聞かないのです。

買い物に行くのは生きるためであって、生きるための「道具・手段」です。会社に行くのは生きるためであって、生きるための道具・手段ですが、「なんでそんなに必死な思いで生きているんですか?」「なぜ生きていかなくてはならないんですか?」というところには全然疑問を抱かないのです、人間は。人間だけではなく生命はみんなそうなのです。それが全然当たり前なのです。だって、生きているのですから。買い物をしなければ、だって生きているのだから。洗濯をしなくては、だって生きているのだから。ということで、人生が終わってしまうのです。

生きるための手段、道具が大事になって、なぜ生きるのか、という問題は関係ないことになってしまう。その考え方は、一般的に世の中を見ても同じことです。今私たちは、発展した世の中で生きていると威張ってはいますが、実際には人間が「道具」の奴隷になっているのです。

世の中では次から次へと「道具」を作るのですが、それがいったいなんのためにあるのか、がわかっていないのです。だから仏教では「あなたはなぜ生きているのですか?」と聞くのです。「わからないならば、その理由を考えてみてはいかがですか?」と。これは、仏教だけが聞いている質問です。この質問について、他の宗教では考察していません。

仏教を「宗教」に含めることができない理由の一つは、それなのです。「宗教」というものは、生きることは前提として認める。正当化する。より幸せに生きることを提案する。やがて、完全に幸福で、永遠に生きられる天国について語るのです。仏教の思想とは、反対なのです。

宗教では、「生きているのはなんのためか?」と考えるのではなくて、より永遠な豊かな天国を提案するのです。これは俗人が希望しているものなのです。道具を作りながら、より安定した生き方を希望しているのですが、作った「道具」は安定した生活の糧にならないし、やがてあっけなく死ななくてはならない。一生懸命、死を避けようと頑張ったのに、失敗に終わります。だから、死なない状態を希望しているのです。

宗教は、そういう世俗の人々の希望に合わせたものを一つ作って売っているのです。必死になって、永遠の天国のことを語るのです。その話に乗らない人もいるから、併せて永遠の地獄の話をもってきて、脅すのです。人が希望するから、要求するからといって、それを与えることは正しいとはいえません。おもちゃのピストルで遊んでいる子供が、本物が欲しいとねだっても、理性のある親は断固として断るのです。要求に応じるだけなら、酒を飲みたい人に酒を売る、何か悪いことをしたがっている子供たちに麻薬を売るのと、本質的に同じです。「死にたくはない? それなら永遠の天国があります。そこなら、死にませんよ」という態度です。

あなたは、なぜ生きているのか?
 

ブッダはこの問題を生きるということ、バワ(存在)とはどういうものかを観察されました。その結果、みんなただ死んでしまうだけだ、ということがわかりました。大切なものは何も見付からないまま、途中で死んでしまう。みんな途中でゲームオーバーになってしまうのです。

だって、やることは毎日同じでしょう? ご飯を食べる、仕事をする、お風呂に入る、寝る、また起きてご飯を食べる、寝るという、それしかやっていないのですから、何かが見付かるわけではないし、第一、忙しいのです。それで、途中でゲームオーバーになって死んでしまう。よくよく見てみれば、ただ人々は死んで終わるだけなのです。

私たちは、ただ、食べて寝て死ぬだけのことではなくて、もう一つ考えなくてはならないことがある、と仏教はいうのです。なぜ生きるのかと発見することです。同時にもう一つ、なぜ生きるべきか、ということも発見します。なぜ生きるべきか、と発見すれば、曖昧に中途半端に疑問と不安だらけで生きている生き方がたちまち消えて、しっかりします。まだ死んでいないから生きている一般人の生き方と、目的があって生きている人の生き方は、同じにはならないのです。

仏教の答えは、渇愛・煩悩・執着があるから生きているのだ、ということです。渇愛があるから、いくら生きていても、満足には至らない。生きていきたいのに、みじめに死ぬ。渇愛がある限り、死んでもまた生を合成するのです。要するに転生するのです。これが限りなく続く。ですから、生きることには、まったく意味がないのです。苦しみの連続です。永遠の天国に行って、永遠にワンパターンで苦しむ、という考えもおかしいのです。ですから、生きている上で、渇愛をなくして解脱することを、「生きる目的」にするべきなのです。ブッダの教えに納得すれば、必死で努力すべき有意義な目的が現われるのです。なんとなく生きることが消えるのです。

この偈の一行で、なぜ生きるのか、という疑問に修行者が発見する答えを説かれているのです。なぜ生きるのか、生きることに意義があるのか、生きるとはどういうことなのか、と智慧で観察したところは、「存在の意義」(バヴェース サーラン)です。答えは「何も見付かりません」(ナーッジャガマ)でした。

ただの空っぽでした、と。「空しかった」ということが見付かったのです。バカバカしいと。それがわかれば、あの必死な「生きていなくちゃ。生きていなくちゃ」という強迫感がなくなるはずです。普通の人は、朝ごはんを作らなくては、学校・会社に行かなくては、勉強・仕事しなくては、買い物をしなくては、掃除洗濯しなくては、お歳暮・お中元を贈らなくては、年賀状を書かなくては、などなど必死でしょう。焦っているでしょう。落ち着きがないでしょう。すべてはその場しのぎのことではないでしょうか。だから、すぐに意味がなくなるのです。

例えばウェディングドレスは必要でしょうか? すぐ結婚する予定があるならば、必要です。しかし、二、三時間以内で意味が終わるのです。ウェディングドレスは、式が終わったら、なんの意味ももたない代物です。おもしろいことに、生きている上でやっている行為はすべて、ウェディングドレスの例えで理解できます。

これは一般の人々の場合ですが、この世にはもっと無知度が高い人々もいます。「人を殺してでも必死で生きていなくちゃ」「大量殺人をしてでも自分の政治家としての権力を守らなければ」「戦争をしなくては」などなど、想像を絶するアホらしいことをする人もいるのです。生きることにはその場しのぎの意味以外、何もないと理解しないから、この世は恐ろしいのです。悪に染まっているのです。犯罪は絶えないのです。生きることの意味は、「空」だとわかると、その瞬間に心がすうっとするのです。今まで背負ってきた、巨大な荷物がなくなるのです。これは悟りの表現でもあります。

ウドゥンバラの譬え
 

渇愛という言葉でも悟りのことを表現できます。二番目に出てきた慢、驕慢、判断という言葉でも悟りのことを表現できます。これらの一つひとつの言葉は、膨大な思想なのです。この第五偈の譬えもおもしろい話です。花の咲かない木があります。パーリ語ではウドゥンバラ(優曇鉢羅)という木で、実がなりますけれど花は咲きません。

そこでウドゥンバラの木がある森の中で花を探すのです。落ちている花がないでしょうか、とね。しかし、いくら探しても見付かるはずがありません。花は咲きませんから。ウドゥンバラを日本語で言えば無花果でしょうか。

無花果の林でもいいし、ウドゥンバラの林でもいいし、とにかく、その林に行って「落ちている花はないかなあ」と探しても花が見付からないように、「生きることに大事な何かがあるのか?」と探しても、何も見付からない、というのです。そこで「花が無い」ということを確認した人は、「ああ、無いんだ」とホッとしてなんにもとらわれない、この世にもあの世にも、存在にはとらわれない状態になる。それが悟りの境地なのです。

無花果の譬えを少々詳しく考えてみましょう。無花果という果物がある。果物があるならば、花があるはずです。その仮定で、無花果の花を探す。見付からない。見付からないからといって、花がないと断言できません。そこで、観察する。調べる。事実を発見する。無花果とは、他の植物と違って派手な花は咲きません。木の枝に最初から無花果の実のみが現われてくるのです。それで、結論です。無花果には花はありませんと(厳密にいえば、無花果にも花の機能はありますが、私たちが常識的に知っている花ではありません)。

私たちは生きていることは確かです。無花果という果実が確かに存在するように、生きているという実感はあります。生きているから、生きていきたいから、死にたくはないから、きっと生きていることに意味があるだろうと推測する。それで調べる。観察する。意味は見付からない。さらに調べたら、生きるとはどのようなカラクリかと発見する。そこで結論に達する。生きることには意義はありません。空しいのです。

今生きていることを見ても、様々な原因・条件がそろって一時的に成り立っているだけです。眼があるから見えるのであって、眼の機能が少々でも変わると、視覚の働きも変わるのです。見て何かを知ったとしても、それは視力によるものです。人間にも見える、猫にも見える。しかし同じものを見て知る世界は、それぞれ違う。人間も匂いを感じる、犬も匂いを感じる。しかし犬は匂いだけで広大な世界を知っている。生きているとは、色受想行の集まりで一時的に成り立っているだけです。

泡沫、蜃気楼、夢で食べるご馳走などの例えで、生きるとは何かと説明しているのです。実体がないだけではなく、その幻想を作る原因も無常で瞬間的に消え去るものです。因果法則や無常を発見すると、はっきりと生きることに意義はありませんと、結論に達するのです。 

この偈では、「意義(実体)たるものはない」といっているのはなぜでしょうか? それは、宗教家、思想家はみな、人が変わっても人には永遠に変わらない魂、実体があると断言的に信じているからです。ブッダは結論に達する前に研究して事実を発見しなさい、事実に基づいて結論に達しなさいと言いたいところでしょう。ですから、宗教家・思想家が言うことは、事実無根なのだという言葉で表現しているのです。

生きることは意義をもたない空回りに過ぎないのだと理解する人は、悟りに達しているのです。

「真理に達した人は、この世もあの世も蛇が脱皮するように捨て去るのです」

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原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章
アルボムッレ・スマナサーラ・著 ¥1,540 (税込)

蛇の猛毒のごとき怒りを瞬時に消し去り、蓮の生命力のごとき欲望を根こそぎ取り去るには?スリランカ仏教界の長老スマナサーラ師が、上座仏教のエッセンスを説き明かす。

アルボムッレ・スマナサーラ
1945年4月、スリランカ生まれ。スリランカ上座仏教長老。13歳で出家得度。国立ケラニア大学などで教鞭をとる。1980年来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在、(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事。ブッダの根本の教えを説き続けている。

【目次】
【1】怒りという猛毒を瞬時に消す(第一偈)
【2】蓮のごとき「欲」を根こそぎにする(第二偈)
【3】考えも感情もすべて涸らし尽くす(第三偈)
【4】判断・比較・評価する心を破壊する(第四偈)
【5】生きる意味を探しても得られない(第五偈)
【6】「ああではないか、こうではないか」と思う気持ちをなくす(第六偈)
【7】すべての言葉も考えも焼き尽くす(第七偈)
【8】感受して作り上げた主観を乗り越える(第八偈)
【9】すべては流れて変化しているだけ(第九偈)
【10】行き過ぎることもなく、止まることもなく(第十偈から第十三偈)
【11】カチンとくる心、気になる心を殲滅する(第十四偈)
【12】「もう一度やり直したい」という心残りをなくす(第十五偈)
【13】世俗の義務感・責任感という「傷」をなくす(第十六偈)
【14】欲を捨て、概念や推測する気持ちも捨てる(第十七偈)

ISBN:9784333023813
出版社:佼成出版社
発売日:2009/6/30