根本仏教とはなにか
いまここに、わたしは、根本仏教と大乗仏教の二つを並べて取りあげる。それは、その二つの仏教をいかに会通もしくは会釈すべきか、その課題について考えようがためにほかならない。
会通とは、ふるい仏教の術語である。たがいに相反する二つの所見もしくは概念を、相会して疎通せしめ、一意に帰せしむるというほどの意味のことばである。また、会釈とは、それもおおよそ同じことであるが、たがいに相異なり、あるいは相反するかに見える教理や、語句を並べて取りあげ、なおその間に、相通ずるものを見いだして、矛盾のない新しい意味のなかに包摂しようとする思想的作業をいうことばである。
そのようなふるい仏教の術語が語る思想的作業を、いまもし、現代の思想的用語にあてて考えてみようとするならば、わたしどもは、当然、まず「ディアレクティーク」(Dialektik) すなわち「弁証法」なるものに思い至らざるをえない。
弁証法とは、もとヨーロッパの哲学の流れのなかに生まれた術語であって、その内包するところは、ギリシア哲学以来のながい西洋哲学史のなかにおいて、幾多の変遷の跡を示しているのであるが、いまは一応、ヘーゲル (Hegel, 一七七〇—一八三一年) によって整えられた形式をもっていうならば、人間の思惟の原理は、たえず「テーゼ」(These, 正) ——「アンティテーゼ」(Antithese, 反) ——「ジンテーゼ」(Synthese, 合) の三つの発展段階をたどるものであるとなす。すべての命題もしくは概念は、その固定の作用が完了するとともに、おのずからそのなかに矛盾を孕(はら)むに至る。それが「テーゼ」(正) に対する「アンティテーゼ」(反) である。しかるに、その矛盾の出現に対して、人間の思惟はまた、その「テーゼ」(正) と「アンティテーゼ」(反) をこえて、より高い自覚のなかにそれらを総合する思想的作業を始める。それがヘーゲルによって、「アウフへーベン」(Aufheben, 止揚) と呼ばれた思想のいとなみであって、それによって新たになれる命題もしくは概念を「ジンテーゼ」(合) とするのである。
いま、仏教においていうところの会通もしくは会釈なる思想的作業は、いささか漠然として厳密性を欠くものであって、必ずしも、人間の思惟にかかる発展段階の存することを自覚的に措定するものではなかったであろう。だが、それにもかかわらず、なお、たがいに相反する二つの所見もしくは概念を取りあげて、そこに矛盾のない新しい意味を見いだそうとするならば、その思想的作業は、おのずから、そのような止揚のいとなみであるよりほかはないはずである。そして、いま、わたしがここに根本仏教と大乗仏教とを並べて取りあげ、その会通もしくは会釈を試みようとするのも、詮ずるところ、より高い自覚のなかにそれらを総合しようとするものにほかならないのである。
では、いったい、根本仏教とはなにか。わたしは、まず、そのことから語りはじめなければなるまいと思う。なんとなれば、根本仏教とは、きわめて新しいことばであるからである。
「根本仏教」というこのことばを最初に用いたのは、わたしの恩師・姉崎正治先生である。先生は、明治四十三年 (一九一〇)、『根本仏教』と題する著作を書いた。それが、そのころの名著としてひろく読まれ、それより「根本仏教」ということばがひろく行なわれるようになった。では、そのことばの生みの親である姉崎正治先生は、どういう意味をもってそのことばを用いたのであるか。先生は、そのことにつき、その著作の「序言」の冒頭につぎのような一節を記している。
東方の仏教は花芯、南方の仏教は枝葉。花芯の色彩に眩して根底を忘れ、枝葉徒に繁茂して幹茎に疎なるは仏教の現状ともいふべきか。聊か自ら恃む所ありて茲に根本仏教を叙せんとするは、著者が仏教研究の上に於て従来なし来りしパーリ仏典と漢訳三蔵との比照に基き、而して宗教としての仏教につきて仏陀弘化の真面目に接せんとの信念に出づ。この著述の由来につきてはこの外に多言するの要あらざるべし。
それはごく短い序文であるが、そのなかにはなお、三つのことが語り出されている。その第一には、いまや仏教者はその根本を尋ぬべきであるということ。人のよく知るように、仏教には北伝と南伝の二つの流れがある。北伝の仏教は、インドから西域を経て中国に伝播し、さらに朝鮮半島を経て東辺の日本に至っておる。南伝の仏教は、インドからセイロン (現スリランカ) に伝わり、そこを根拠として南東アジアの諸国にひろがっている。それらの仏教は、いまもなおよく生命を維持しておるとはいえ、その栄えはいわば枝葉もしくは花芯の栄えであって、仏教者はその根基をかえりみることを忘れてすでに年久しい。先生はそのことを遺憾とし、いささか自ら恃むところあって、ここに「根本仏教を叙せんとする」のだという。
ひるがえって思えば、キリスト者の世界においては、わたしどもは、しばしば「イエスに帰れ」という叫びを聞く。彼らがなにか新しい信仰活動をいとなむとか、あるいは新しい神学を打ち出すというような時、いつも、その原動力をなすものはその叫びである。しかるに、仏教者の世界にあっては、わたしどもは、いまだかつて、「ブッダに帰れ」という叫びを耳にしたことがない。しかるに、いま、先生が、いささか自ら恃むところあって、ここに根本仏教を叙せんというのは、幾久しく聞くことのなかった「ブッダに帰れ」、という叫びにほかならないということをうるであろう。
その第二には、根本仏教を叙せんがための文献についての言及である。先生は、この著作に先立って、明治四十一年 (一九〇八) “The Four Buddhist Agamas in Chinese” (漢訳四阿含の研究) なる英文の著作を刊行した。その副題には “A concordance of their parts and of corresponding counterparts in the Pali Nikayas” とある。いささか学問研究の領域に深入りしていうならば、漢訳四阿含とは、「長阿含経」三十経、「中阿含経」二百二十四経、「雑阿含経」千三百六十二経 (ほかに「別訳雑阿含経」三十六経、「雑阿含経」二十七経がある)、ならびに「増一阿含経」四百七十二経を総称していうことばであるが、そのなかでも、最も重要な経典群である「雑阿含経」の千三百六十二経は、その漢訳 (四百三十五、求那跋陀羅訳) にあたって、どうやらその配列の原型が崩れてしまったようである。先生は、それをパーリ・ニカーヤ (パーリ五部) と照合することによってその原型を復原し、かつ、漢訳四阿含とそれに相応するパーリ・ニカーヤの各部の対照表を制作した。それによって根本仏教の研究は、初めてその基礎を整えることをえたといってよろしい。先生がここに「著者が仏教研究の上に於て従来なし来りしパーリ仏典と漢訳三蔵との比照に基き」というのは、そのことである。
その第三には、続いて、「宗教としての仏教につきて仏陀弘化の真面目に接せんとの信念に出づ」という一節の意味するところである。いまいうところの根本仏教は、学問の世界においては一般に「原始仏教」とよばれている。姉崎正治先生は、いうまでもなく、学者である。それなのに、原始仏教の称をもちいず、あえて根本仏教の名をもちいた理由はなんであるか。その秘密を解く鍵がこの一節のなかに蔵せられているのである。先生は「根本」ということばの出処についてみずから語ったことはない。だが、弟子であるわたしにはその出処の見当はつく。阿含部の経典には、しばしば〈ムーラ〉ということばが見える。〈根本〉という意味のことばである。それが、たとえば、「ムーラパンニャーサ(p)」(根本五〇品) などという句をなしている。パーリ・ニカーヤの相応部経典において、蘊相応 (蘊に関する経の集録) とか、六処相応 (六処に関する経集の録) などの大きな経の集録にあって、まず、その根本となる五十経をあげる場合の篇目が、そのような句で示されているのである。著名な阿含の研究者であった先生が、そのような用語例を知っておられたことは疑いの余地がない。そして、いま先生は、枝葉のみいたずらに栄えている仏教の現状を批判して、仏教者はもう一度その根基をかえりみるために、ブッダその人の仏教に帰らねばならぬとする。いうなれば、いまや仏教者はもう一度その原点に立って、仏教そのものを考え直さねばならぬ時であるとする。その主張もしくは信念をこめて、ここにブッダその人の仏教を叙せんとするにあたり、この「根本」ということばをもって仏教に冠したものと知られるのである。
いま、わたしもまた、その恩師の顰に倣って、仏教の根基をゆびさすに「根本仏教」の語をもってする。その依るべき文献は、阿含部の諸経である。さらに、わたしもまた、仏教者はいまや、もう一度その原点に立って、仏教そのものを考えてみなければならないとする。その時、わたしの前に置かれる大いなる課題の一つは、当然、根本仏教と大乗仏教とのかかわり方についてのそれでなくてはならない。
しかるに、まずはっきりといわねばならないのであるが、この二つの項目、すなわち、根本仏教と大乗仏教とを並べて取りあげ、その二者のかかわり方を、会通もしくは会釈のために考えようとするような企ては、これまでになお一度も企てられたことはなかった。その意味において、この思想的作業は、わたしども仏教者にとって、まったく新しい企てであり、したがってまた、まったく新しい課題であるといわなければならない。わたしどもは、そのことをまずはっきりと認識しておかねばならない。
仏教のながい歴史の語るところは、この二つの仏教が、けっしてかかわりのないものでなかったことを示している。いや、むしろ、仏教の全歴史の基調をなすものは、この二つの仏教のかかわり具合、そのものであったといってもいい過ぎではあるまい。ただ、その二つの流れは、北伝仏教の用語をもってすれば、小乗仏教と大乗仏教の名をもって呼ばれ、絶えず対立抗争の関係のなかにおかれてきた。さきの弁証法の用語をもっていうなれば、「正」に対する「反」の関係なのである。まったく矛盾と対立の関係のなかにあって、より高い自覚のなかにそれらを総合しようとするがごとき思想的作業は、まったく企てられたことがなかったのである。
そのことを何よりも端的に表現しているものとして、わたしは「小乗」および「大乗」という二つのことばをあげることができる。小乗とは、サンスクリットの「ヒーナヤーナ」の訳語である。〈ヒーナ〉とは〈しめ出された〉とか、〈ひくい〉とか、〈おとれる〉とか、〈欠点のある〉などの意味をもった形容詞、〈ヤーナ〉とは、〈乗物〉もしくは〈教法〉を意味する名詞であって、それに〈ヒーナ〉なる形容詞をつければ、当然、それは「おとれる教え」を指さす貶称もしくは蔑称であることがわかる。そのような貶称を、自己の奉ずる教法に対して用いる者はどこにもない。それに対して、大乗とは、よく知られているように、同じくサンスクリットの「マハーヤーナ」の訳語である。〈マハー〉とは、名詞に冠して「大いなる」もしくは「輝ける」ものを表現することばである。いま、それを先の〈ヤーナ〉に付すれば、「大いなる乗物」もしくは「すぐれたる教法」を意味するものとなり、それを中国の訳経者たちが、その意味をもって「大乗」と訳したのである。つまり、それは美称であって、そのような美称を自己の奉ずる教法にもちいるのは世のつねのことと知られる。
とするならば、北伝仏教のなかに絶えず小乗・大乗の用語がもちいられてきたということは、つまり、そこでは、ながい間にわたって、その二つの仏教の流れが対立抗争の関係のなかにあったことを示すとともに、またそこでは、大乗仏教が小乗仏教に対して圧倒的な優勢を克ちえていたことを語っている。なんとなれば、小乗仏教は、そこでは、絶えず自己の意図しない貶称をもって語られ続けているからである。その一部始終を説くためには、結局、北伝仏教の歴史のほとんどすべてを語らなければならない。だが、いまはその余裕もないので、読者の常識にまかせて略するのほかはない。ただ、いいたいことは、いまや事情はまったく一転したということである。
その事情の一変については、二つのことをあげることができる。
その一つは、明治このかた、わたしども仏教者の視野もまた拡げられたということである。それまで、わたしどもは北伝の仏教のみしか知らなかった。ふるい仏教のことばに「三国仏教」ということばがあった。インドの仏教、中国の仏教、そして日本の仏教をいうことばである。それまでわたしどもの視界にあるものは、それらの仏教だけであった。そのなかで、わたしども日本人の仏教にとって、圧倒的な影響を行使していたものは中国の仏教であった。はやい話が、わたしどもにとって、仏教の文献といえば、漢訳の経典を中心として、それに中国ならびに日本において選述された文献を加えたものであった。インドの仏教といっても、わずかにそれらの文献を通して知られる知識以外には何ものもなかった。それ以外にはまったく知るところがなかったというのが、それまでの日本の仏教者たちの視野であった。しかるに、明治の開国以来、わたしどもの仏教をみる視野もまた、急速に開けてきたのである。三国の仏教のほかにも、なお、おおくの国々の人々が、仏教の教化をこうむり、現に仏教者としてあることが知られた。また、仏教の文献は、漢訳の経典のほかに、サンスクリットのもの、パーリ語のもの、チベット語のものなどが、なおおおく存することも知られた。ことに、スリランカには、ふるくから整然たる「パーリ五部」が存し、いわゆる南伝の仏教は、そこを根拠地として、ひろく南東アジアの大陸部および島嶼部にひろまったものであることも知られた。しかも、そこで行なわれた仏教は、主として「テーラヴァーダ(p)」 (上座部) に属するものであって、大乗仏教の影響は、ほとんどまったく存しないことも知られた。
その二つには、仏教に関する学問の領域において、原始仏教の研究がその大きな姿をあらわしたことである。その領域における研究の先駆者たちは、いずれもヨーロッパの学者たちであった。ユージン・ビュルヌフ (Eugène Burnouf, 一八〇一—一八五二年 フランスの言語学者・東洋学者)、マクス・ミュラー (F. Max Muller, 一八二三—一九〇〇年 ドイツからイギリスに帰化。東洋学者)、リス・デヴィッズ (T. W. Rhys-Davids, 一八四三—一九二二年 イギリスの仏教学者)、オルデンベルグ (H. Oldenberg, 一八五四—一九二〇年 ドイツのインド学者・仏教学者) などが、その大いなるものであった。彼らは、いずれも、サンスクリットもしくはパーリ語に通じ、その語学力を駆使して、インド学ならびに仏教学の領域において新生面を開いた。そして、明治以後のわが国の仏教学者たちは、きそって海を渡り、彼らに就いて学んだ。南条文雄 (一八四九—一九二七年)、高楠順次郎 (一八六六—一九四五年)、姉崎正治 (一八七三—一九四九年)、木村泰賢 (一八八一—一九三〇年)、宇井伯寿 (一八八二—一九六三年) などみなそうである。それらの学者たちのリードするところによって、明治後半より大正・昭和にかけて、わが国の仏教学のなかに、原始仏教研究の大きな流れが形成された。それによって、ながい間にわたって「大乗相応の地」であることを誇りとしていた、わが国の仏教者たちのまえに、初めて清純なるブッダ・ゴータマの教えがもたらされた。かくて、まったく逆説的ないい方であるが、今日のわが国の仏教者たちにとっては、最も古いものであるブッダ・ゴータマの教えが、新しい酒としてその前におかれてあるのである。
わたしが、新しい課題であるというのは、このことである。それは、かつて大乗仏教を奉ずる人々が小乗仏教として却けたものと、まったく同一であるとはいい得ないけれども、また、決して別のものでもない。それを、わたしどもは、いったい、どう考えたならばよいか。あるいは、いかに評価したならばよいか。わたしどもは、いま、その新しい課題のまえにおかれているのである。
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『仏教講義 根本仏教と大乗仏教の会通を語る』
増谷文雄・著 ¥1,760 (税込)
釈尊の真精神は、教団発展の過程で分派した根本仏教と大乗仏教のいずれにあるのか。著者は、二つの仏教が相容れない思想であるとの理解を超え、両者の性格を検証、相互補完的関係にあることを提示します。
増谷文雄
明治35年2月16日、増谷民生の長男として福岡県に生まれる。大正11年、第五高等学校文科卒業。大正14年、東京帝国大学文学部宗教学科卒業。昭和17年、浜松高等工業学校教授。昭和22年、東京外事専門学校教授。昭和22年、NHK宗教専門委員をつとめる。昭和24年、東京外国語大学教授の傍ら、東大・大正・立教各大学の講師をつとめる。昭和26年、東京外国語大学附属図書館長兼務。昭和31年11月3日、1956年度「毎日出版文化賞」受賞。昭和35年、東京大学より文学博士の学位を授かる。昭和35年、スイスのダボスにて国際宗教学会に出席する。昭和39年3月、東京外国語大学停年退職。昭和39年、東京教育大学講師。昭和39年、三康文化研究所評議員ならびに研究指導員となる。昭和39年、日本宗教学会の会長をつとめる。昭和40年、日本宗教連盟理事。昭和41年、紫綬褒章を受ける。昭和42年4月~44年3月、大正大学宗教学科主任教授。昭和43年、国際宗教研究所理事長。昭和44年1月~46年4月、都留文科大学学長。昭和47年、勲三等瑞宝章を受ける。昭和62年12月6日、入寂(八五歳)
(※略歴は刊行時のものです)
【目次】
はじめに
ⅰ 仏教の原点を求める
ⅱ ブッダ・ゴータマが説いた道
ⅲ 根本仏教の基本的性格
ⅳ 大乗仏教の基本的性格
ⅴ 人間完成の道としての仏教
ISBN:9784333021208
出版社:佼成出版社
発売日:2005/1/30