経典はいつできたのか
一般に仏教経典といわれるものには、一定の形式があります。お経の冒頭が「如是我聞、一時仏住……」(かくの如く我れ聞く、ある時仏は……に住したまう)で始まり、その最後が「聞仏所説、皆大歓喜、信受奉行」(仏の所説を聞いて、皆大いに歓喜し、信受奉行した)とか、「皆大歓喜、受持仏語、作礼而去」(皆大いに歓喜し、仏語を受持して、礼をなして去った)とかいう結語で終わっていることも、経典の一つの形式であります。
そこでまずお経の最初にある「如是我聞」についてでありますが、如是とは「かくの如く」「このように」ということで、以下に説かれる仏の説法に対して、これを聞く前から、まず無条件にこれを信じて疑わないことであるとされています。
次に「我聞」(われ聞く)の「我」ということは、無我を説く仏教には適当ではないではないかという説もあります。この点から、「如是我聞」としないで「聞如是」としている漢訳経典が少なくありません。ことに古い時代に訳された経典の多くは「聞如是」となっています。『法華経』の古訳としての『正法華経』でも「聞如是」であります。しかし「如是我聞」の我は、仏教で否定する常住の実体としての我(アートマン)ではなく、常識的にいう自分のことで、この常識的な我までも否定する必要はありません。
また経典は単にその教えを理解し体得することだけでなく、大乗仏教になると、経典を読誦することによって、大きな功徳があるとされていることから、読誦のために経典が用いられることが多くなりました。そうするとどうしても、経典を読みやすく、口調をよくする必要が生じました。
そのために、『法華経』などの重要経典を多く翻訳した鳩摩羅什(クマーラジーヴァ、略して羅什)の訳経などは、読誦ということにも考慮を払い、意味を正しく伝えると共に、口調をよくするように、文章を整えたのであります。
そのためには、昔からの「聞如是」では調子が悪いので、「如是我聞、一時仏住……皆大歓喜、受持仏語、作礼而去」というように散文の部分でも四字ずつに区切って、調子をよくしました。五世紀初頭の羅什によって、このようなすぐれた訳例が作られると、その後の漢訳経典では、すべてこれにならうようになりました。なお、「聞如是」よりも「如是我聞」の方がインド語の原典の意味を正しく伝えていることにもなるのです。
さて、「如是我聞、一時仏住……爾時」とあるのは、「このように私は聞きました。ある時仏は……に住しておられました。その時」として、次に仏の説法の場面なり、説法の内容なりが説かれることになるのですが、「如是我聞」という言葉は誰が説いたかといえば、伝統的な解釈ではこれはアーナンダ(阿難)の言葉であるとされています。何となれば仏滅直後の第一結集において、アーナンダが仏から聞いて覚えていたすべての経典を「このように私は聞きました」といって、大衆の前で誦出し、大衆がこれに賛同することによって、経典として認められるようになったといわれているからであります。
そこで経典が初めて集められたとされる第一結集の模様を少し眺めて見ることにしましょう。
ここに結集とは仏典編集会議のことであって、今日まで伝えられている経典は、何回かの結集を経て整理し整備されてきたものです。その第一回の結集が、釈尊の入滅後まもない頃に、すぐれた仏弟子たちによって行なわれ、そこで仏の説法が集められたのですが、どうしてこのような会議がもたれるようになったかといえば、それは次のような事情によるのであります。
釈尊は八十歳の老齢になって、もはやその臨終が近づいたのではないかと案じていたマハーカッサパ(摩訶迦葉)は、釈尊のあとを追って、南方のマガダから、五百人の比丘をつれて、北方への旅を続けていました。その頃には、釈尊がもっとも頼りとされていた第一の双弟子としてのサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)は、その前年の頃に相次いで世を去り、そのために釈尊は力を落とし、自ら死期の近づいたのを感じておられたもののようです。サーリプッタ、モッガラーナに次いでは、マハーカッサパが仏弟子中の代表者でありました。
釈尊の安否を気遣いながら、マハーカッサパはパーヴァーの町に到着しました。ちょうどその時、北の方からこの町へ向かって一人の邪命外道がやって来たので、マハーカッサパは彼に釈尊(沙門ゴータマ)の消息を知らないかと尋ねますと、この邪命派の出家は、ゴータマはすでに一週間前にクシナガラで亡くなられた。自分が持っているこの花は、その遺骸に供えてあったのを分けてもらって来たのであると答えました。
これを聞いたマハーカッサパはじめ、多くの比丘たちは大いに歎き悲しみました。すでにさとりを開いている者は、諸行無常の道理によって、生まれた者が死ぬのは否定することのできない事実であるとして、悲しみをこらえていましたが、まださとりに達していない者たちは、身も世もあらず、輾転反側してもだえ悲しんだのであります。
この様子を見ていた一人の晩年僧(年とってから出家した者)が、彼らに向かって、「何もそんなに歎き悲しむことはないではないか。あのやかましい大沙門(釈尊)は、ことごとに、これをなせ、それをしてはならぬ、といって、われわれを束縛して困らせていた。今や大沙門がいなくなったので、これからは何でも自分の思い通りのふるまいができるようになった。悲しむどころか、むしろ喜ばしいことではないか」といいふらしていました。
これを聞いたマハーカッサパは、もしもこのような破戒無慚の悪比丘がはびこるようであれば、非法非律が栄えて、釈尊の正しい教えはやがて滅びてしまうであろう。悪比丘が栄えないうちに、正しい教えを確立しておく必要があると考え、正法結集の決意をしたのであります。
そこで、マハーカッサパは、彼の差配のもとに、釈尊の葬儀を滞りなくすませると、大衆を集めて、正法結集の動議をなし、一同の賛成を得て、大衆の中から、もっともすぐれた五百人の阿羅漢(最高のさとりを得た者)を代表として選び、三ヵ月後の雨期の間、マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)で結集の会議をなすことを決めました。
この五百人は、アーナンダを除いては、すべて阿羅漢でありましたが、アーナンダはまだ最高のさとりに達していなかったのであります。しかしアーナンダは常随の侍者として、釈尊の後半生二十五年間は、仏の側を離れることなく、その間の仏の説法は細大もらさずこれを聞き、そのすべてを記憶していました。アーナンダは智慧のはたらきにおいては、他の大弟子たちより劣っていたかも知れませんが、多聞第一といわれるように、記憶力においては彼の右に出る者はなく、彼は侍者となる前の二十年間の仏の説法も、他の弟子たちからこれを聞いて覚えていたので、もしアーナンダを結集に加えなければ、仏の四十五年間の説法は、完全に保存することができない。つまりアーナンダがいなければ結集の目的を達することができないことになるから、まだ有学(さとり学ぶべきことが残っている者)の聖者であったけれども、彼を結集者の中に加えないわけにはいかなかったのであります。
アーナンダにしてみれば、実は阿羅漢でなければ会議に加わる資格がないので、その時までに何とかして最後のさとりに到達したいとあせり励み、いよいよ明日から会議が始まるという前の晩も、おそくまで努力して悩んでいたが、どうしてもさとりが得られない。仕方なしに、もう寝ようとして、頭を枕につけようとした瞬間に、突如としてさとりが開けて阿羅漢になったということが伝えられています。
いよいよラージャグリハ郊外の七葉窟で五百人の会議が始まると、マハーカッサパが議長となり、アーナンダが仏の説法としての法(すなわち経)を誦出し、教団の規則としての律は持律第一のウパーリ(優波離)が誦出したとされています。アーナンダは大衆の前面に設けられた仏の座席に坐り、「このように私は聞きました。ある時仏は、……に住して居られました云々」といって、釈尊の説法を一つ一つ、その記憶に従って説き出したのであります。
大衆はそのたびごとに、なるほどその通りであった、それに相違ないといって、アーナンダの誦出に賛意を表し、それが仏の説法として大衆から承認され、経典として成立するようになったのでした。この時にアーナンダが「このように私は聞きました」といったのが「如是我聞」という句として、すべての経典の冒頭におかれるようになったと伝えられています。
阿含経といわれる原始経典だけについて見ても、その説者としては、前にも述べたように、釈尊自身のものが大部分ではあるけれども、その他に有名な弟子たちが仏に代わって説いたものもかなりあります。
例えば、ある時、釈尊は多くの弟子たちに対して、四諦の教えを説き、さらにその席にいたサーリプッタとモッガラーナの二大弟子を賞賛し、サーリプッタは生母のようなものであり、モッガラーナは養母のようなものであるから、比丘たちはこの二人に親しみ近づくがよろしいと説き、さらにサーリプッタは私が簡単に述べた四諦の教えを詳しく皆の者に説明するであろう、といってそこから退席された。そこでサーリプッタは比丘たちのために、四諦八正道の教えを詳細に説いたのであります。
これは『聖諦分別経』(四諦の注釈経)として残っています。またある時は背中が痛むといって休息されている釈尊に代わって、サーリプッタが哲学的な教理をいろいろと説いたこともあります。
ダンマディンナー(法楽)という比丘尼は、ラージャグリハの良家の主婦であったが、夫のヴィサーカは熱心な仏教信者で、常に釈尊の説法を聞き、やがて斯陀含(一来)というさとりを開くようになりました。彼は妻に対していつもやさしかったけれども、さとりを開いて聖者になってからは、性的な欲求が次第に少なくなったので、妻は夫が何かよそよそしくなったように思い、その理由を尋ねると、仏教への信仰から、世俗の欲情がうすれてきたことを告げられ、夫が熱心に仏教を信仰していることを初めて知り、自分も夫の許しを得て、比丘尼教団に出家したのであります。
やがて専心な修行によって、彼女は夫よりも前に最高のさとりを得て阿羅漢となり、このすばらしい教えを自分の夫にも分かちたいと考えて、夫の家を訪ね、彼に対していろいろな説法をいたしました。これが有名な『法楽比丘尼経』であり、彼女は比丘尼中での説法第一といわれるようになりました。
また在家信者の中で智慧第一といわれたチッタ居士は、出家の人に劣らず仏教の教理にも達していたので、在家でありながら教化活動をなし、自分の旧友や親戚知人などを仏教の信仰に誘導したり、異教の人たちに法を説いて、彼らを仏教に転向させたこともあります。また彼が比丘たちと教義に関する問答をなし、時には彼らに答えて法を説いたこともあります。このような多くの説法や問答が経典として伝えられています。
その他、梵天、帝釈や夜叉、鬼神といわれるものたちが仏と問答をしたり、彼ら自身で法を説いたりしたとされている経典もあります。
このように見てくると、仏陀以外の人びとや非人(人間以外の者)たちが説いたものが、どうして仏説と見なされるようになったかが問題となります。仏陀以外のものによるそれらの教説は、これを説いたり聞いたりした人が、これを釈尊に報告し、それが正しい説法として仏によって承認されたために、経典とされて伝えられたものであります。この意味で、直接の仏説でないものも、仏教の正しい教えを含んでいるものは仏の印可証明によって、仏説と同視され、やがて経典となったものであります。
また、原始経典の中には仏滅後になってから、仏の遺弟子たちによって説かれたものもかなりあります。これらは仏滅直後の第一結集では誦出されなかったものであるのに、どうしてそれらが現存経典の中に含まれているかといえば、おそらく第二回以後の結集で、経典として誦出されたものと思われます。この場合でも、それらの教説が仏教の正しい教えを含み、法と義にかなっていたから仏説に等しいと見られたものでありましょう。
パーリ伝では、経典としての八万四千の法門の中で、八万二千は仏の直接説法であり、二千は仏弟子たちが説いたものとされています。なお『大智度論』巻二には、仏法には五種人説ありとして、①仏自口説 ②仏弟子説 ③仙人説 ④諸天説 ⑤化人説を挙げています。
そして仏滅後のそれらの経典にも「如是我聞」の句がその冒頭にあるが、この句は第二回以後の結集の時に、経を誦出した者が唱えたものと思われます。この点から、「如是我聞」の語は、第一回結集の経典誦出者アーナンダだけでなく、第二回以後の結集における誦出者によって唱えられた文句でもあるということができるのであります。
なお今日伝わっている原始経典は、直接に釈尊自身の説法とされているものでも、決して釈尊が説かれたままのものということはできません。今日でさえも、講演や説法を直接に聞いた者でも、速記やテープレコードでもしない限り、説法のままを記憶することはほとんど不可能であるからであります。これは仏の説法についても同じであったと考えられます。
また説法の意味内容にしても、聞く人の智慧機根により、理解力のいかんによって、受け取り方が違ってくるのは当然であります。これも仏の説法がそのまま伝わったと考えられない理由であります。さらに今日では、釈尊が使用された言語のままで伝えられた経典は一つもありません。他の地方の、後世のインド語に移されて伝えられているからであります。このような点から見て、数百年間の口誦記憶による伝承の間には、仏の説法は意識的、無意識的にかなりの変化を受けているに相違ありません。また原始経典の中に含まれている仏陀以外の人の説法が、仏説のままでないことは言をまたないのであります。
このように見てくると、現存最古の経典としての原始経典でも、厳密な意味においては、仏説ということはできないことになります。それにもかかわらず、それらがすべて仏説とされるのはどういうわけでありましょうか。これは大乗経典が仏説とされることとも関係してくるのであります。
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『経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史』
水野弘元・著 ¥1,980 (税込)
仏教は、日本に伝えられるまでに、中国の三蔵法師をはじめとする求道僧などのさまざまな人びとのいとなみがあったと言われています。本書は、そうした人びとの求法のいとなみを、経典の流伝の歴史を通して詳述。
水野弘元
1901年、佐賀県に生まれる。1928年、東京大学文学部印度哲学科卒業。
駒沢大学教授、東京大学教授、駒沢大学総長などを歴任。駒沢大学名誉教授。
文学博士(東京大学)、インド・ナーランダ大学名誉文学博士。
1967年、紫綬褒章受章。1981年、仏教伝道功労賞受賞。
2006年1月、104歳にて逝去。
主要著書に、『パーリ語文法』(山喜房仏書林)、『釈尊の生涯』(春秋社)、『パーリ仏教を中心とした仏教の心識論』(山喜房仏書林)、『パーリ語辞典』(春秋社)、『仏教の基礎知識』(春秋社)、『仏教要語の基礎知識』(春秋社)などがある。
(※略歴は刊行時のものです)
【目次】
まえがき
ⅰ 経典はどのように誕生したのか
ⅱ 経典は何語で書かれたのか
ⅲ 仏の教えを伝える様々な人びと
ⅳ 大蔵経とは何か
ISBN:9784333020812
出版社:佼成出版社
発売日:2004/08/30