【連載】声をかく|(1)ビャンビャン麺に夜露死苦


AIへの質問文の末尾に「あなた自身の言葉で答えて」と書き添えた。八つ当たりにも程がある。いま、「あなた自身の言葉」ほど不信にさらされた言葉はないからだ。

AIの作文能力が明らかにしたのは、人間が作成する文章は既存の記号の順列組み合わせであるという、ごくごく常識的な事実だった。言葉が私有物であるだなんて、そもそも誰も信じてはいない。言葉は借り入れ、払い出されているものだ。
肝心なのは「声」と「字」への信仰だった。まず、声には特定の音響的特徴が宿っているゆえ、特定の身体の内から発されているという信仰。次に、言語音が聞き取られ、書き起こされたものが字になっているという信仰。二つの信仰がドッキングしたところに、言葉を個人の内面から発された「声」だと呼ぶ比喩が可能となる。これを応用し拡大すれば、政治的主張や政治参画をも「声」の比喩で表現することができる。「声をあげよう」、「声なき声に耳を傾けよう」……。
したがって、「あなた自身の声」があるかぎり、「あなた自身の言葉」もあるのだと信じることができる。二つの信仰に裏打ちされたパラフレーズを、文字通りに実行してくれるのが音声認識機能だろう。いまやテキストエディタやICレコーダーにも搭載されているこの機能を使用すれば、自分の内から言葉が吐き出されていることを実感できる。モニタ上で、発声にしたがって線が這い回り、集まっては落ち着きなく形を変えているのが見える。逡巡するかのような変換はしゃべり終われば落ち着き、整形される。こうして「あなた自身の声」は言葉に書き起こされる。「個人の声」が「普遍の字」に変換されているのだと実感することができる。
しかし、そう安穏としていられるだろうか。音声認識によって出力された文字列は、「あなた自身が読み上げた言葉」とも捉えることができる。

2023年9月。Apple社が発表した最新のオペレーティングシステム「iOS17」には「Personal Voice」なる機能が付与されている。同社の製品であるスマートフォンやタブレット端末上で動作するこの機能は、いわゆる「合成音声」を生成し自動操作するためのものだ。ランダムに表示されたいくつかの例文を、ユーザー自身が声に出して読み上げ、合計15分ほどの音声データをシステムに提供すると、任意の文章を当人そっくりの声色で機械に読み上げさせることができる。本稿の執筆時ではまだ英語のみに対応した機能とのことだが、日本語をカバーするのも時間の問題だろう。注視したいのは、任意の声色を複製し自動化する機能に「Personal」という語彙が付されていることだ。発声者の身体を介在させず、文字列を言語音に変換し「読み上げる」機能に過ぎなくとも、特定の特徴を有する音響であれば、なおも「Personal Voice」なのだとシステムは称している。
声と言葉のあいだにおかれたイコールが、逆様に作用している。「個人の声」は「普遍の字」を読み上げる音響に過ぎない。であれば、それは自動化されて問題がないことになる
[※1]。はじめに言葉ありき。つぎに読み上げる「あなた」ありき。

いま、「あなた自身の言葉」ほど滑稽に響く言葉はない。声は個人識別記号を兼ねた読み上げ音響に過ぎず、字は既存の記号の順列組み合わせに過ぎない。ふたつの「過ぎない」は、「声」と「字」にそれぞれのシニシズムを呼び寄せるだろう。それに抗するロマンチシズムも同様に想像できる。それはそれでよいとしても、果たして「声」と「字」はその限りのものなのだろうか。二つをイコールで結ぶ信仰が上記のデッドロックに至るのだとして、それを解きほぐす別の信仰はありうるのだろうか。
この連載は以上のように誇張された危機感のもと、「声」と「字」の別様のありかたを探すために書かれる。おっかなびっくり訪ねるのは仏教の世界だ。宗教ほど二つの扱いを切実に考えているものはないからだ。専門性は露ほどもないが、この問いにかかわる限りで、僕も切実さに努めよう。

仏教書の読みにくさ

息巻いてみたはいいものの。仏教をあつかった書物はなぜ、こんなにも読みにくいのだろう。「批評」っぽくあれこれと他人の言葉を引用する前に、私的な感触から向き合うことにしたい。いわゆる「人文書」または「思想書」のなかでも、とりわけ仏教に関する書物は目が滑る思いで文を追うことになる。内容の硬軟よりも前に、まずそれらは文面の「重さ」を印象付ける。荘厳な漢字の並びがつくる、暗号のような難読熟語が文中にいくつも現れるからだ。とにかく線が集まって、もつれている。ページをめくるたび網を持ち上げるような思いになる。
では、問題は視覚的な「重さ」だけだろうか。日本語は、漢字のほかカタカナとひらがなとを含む3種類の文字を扱う言語だ。読みの音が一定で、漢字に比べて簡潔な線で構成されるカタカナとひらがなは、漢字の熟語と併記することで表音記号として機能するだけでなく、文面を視覚的に「軽く」する効果をもつ。線の密度が下がるだけで、なんだか文面が薄手で風通しのよい生地になったように思える。可読性の高い文章の心得として、文章に対する漢字/カタカナ/ひらがなの比重に気を配るべし、というのもよく聞く話だ。入門書や啓発書のような体裁の文章は、とくにその工夫を要するものだろう。
しかし、こと仏教書に関しては、難読熟語を積極的にカタカナ、ひらがなによって翻訳した文にこそ、より厄介な「読みにくさ」が立ち現れてしまう。なぜなら、そうして訳された語はたんに漢字熟語としての来歴を抹消されてしまうだけでなく、異なる二つの極端な距離感に置き直されることとなるからだ。

一つ。熟語をカタカナの羅列に翻訳すれば、それらは「来歴不明の外来語」の印象を強める。「仏陀」を「ブッダ」と書けば、漢訳の向こうにある原音への直接性が担保されたように思える。しかし他方で、「心」という単語を「ココロ」と書き換えてみればわかるように、カタカナは親しんだ母語ですら既知の意味から遠ざけ、常用外の言語音として間接化した表記にしてしまう。それだけではない。仏教は古代インドに由来を持ち、サンスクリット語やパーリ語、チベット語、そして漢語などによって伝承されている。仏教用語の漢字熟語をカタカナによって翻訳した場合、漢字そのものが示していた伝承経路の個別性が表記から失われ、異なる文字圏の言語音とともにフラットに並べられることになる。漢訳語彙の読みをひらくにせよ、あるいは漢訳語彙から離れ古語に近い音を直接表記するにせよ、それぞれの単語が個別にもつ「原典」への距離の説明を付すことで、文章は別種の煩雑さを帯びてしまう。
二つ。熟語をひらがなの羅列に翻訳すれば、やはり熟語の来歴は抹消され、今度はそれが「既知の共通感覚」であった印象を強める。ひらがなはカタカナと異なり、同様の音をもつ別の語彙を積極的に想起させ、それらと意味の相同性をつくる働きを示す表音文字だ。つまり、「掛け言葉」の効果が期待できる表記だ。「ゆるし」が「赦し」であると同時に「許し」とも読めるように、表された音は多義化し、宗教用語と常用語とがともに一つの表記に収斂する。この利点を活かすため、ひらがなでの翻訳は、より想起の広がりが期待される音をもつ語への意訳とセットであることが多い。そうして、未知の宗教用語と既知の常用語とが、互いに意味を浸透させあい、前もって共有されていた感覚こそが神秘に通じていたのだと捉え直される。しかし、こういった記述は構造上、「私(たち)」の内的な共通感覚を担保とするため既存の帰属意識を利用することになりやすい。

カタカナは「音の無意味化」に、ひらがなは「音の多義化」に寄与する。そして、カタカナは既存の意味を追い出し「外」に語を置く「排除の表音文字」として、ひらがなは所与の意味たちを呼び出し「内」に語を匿う「包摂の表音文字」として機能する[※2]。外国人が喋る言葉をカタカナで書き起こすことがただちに差別的な様子に映ること、「やさしい日本語」なる教科書が名の通りひらがなに比重をおいた文章で書かれていることを想起してもよいかもしれない。ともあれ、カタカナ/ひらがなによる二種類の翻訳、つまり表音文字による音訳と意訳は、いずれも漢訳を経由した仏教の来歴を抹消してしまうのと同時に極端な距離感を語に与えなおし、不足した説明をより煩雑にさせるか、あるいはキャンセルされた語に触れる理由自体を失調させてしまう。より厄介な「読みにくさ」とはこのことだ。
では視覚的なストレスは甘受して、頻出する漢語にさえ向き合えばそれは解消できるかといえば、実はそうでもない。そもそも、カタカナ/ひらがなによる翻訳の困難は、漢訳が直面した困難を追体験したようなものでもあるからだ。

二つの「読み」

仏教に関する難読熟語は、サンスクリット語を漢訳したものに由来をもつ。さらにくわえて、それらの漢訳には、元の語の音を再現するための漢字をあてた「宛字漢語」のようなものと、近似した意味に対応した漢語があてられたものとが混在している。つまり、音訳と意訳だ。それらの漢語が、さらに和語の読みに合わせて部分的に音を変えたり、あるいは新たな概念を指す熟語へと発展したりしたものが日本語の「仏教用語」であるので、余計にややこしい。たんに文面が重いだけではない。それを受け入れたとして次は、その奇異な音と難解な字のどちらの、どの部分を真に受けるべきなのか戸惑うことになる。この問題が極端化して外に現れたものが、カタカナ/ひらがなの困難であるということもできるだろう。
――と考えたところで、「読み」という言葉は、「その字の意味に到達しうること」と「その字と連関した音」との二つを指し示していることに思い当たる。
西洋・英米圏の文字文化の代表例をアルファベットとし、これにアジア圏の文字文化の代表例として漢字を対置させる議論は枚挙にいとまがない。前者は簡素な記号で音素を示す表音文字であり、後者は複雑な形象によってそれ自体が絵のように意味を示す表意文字である、といった調子のものだ。こういった区分はゼロサムゲームを誘引する。意味の源泉を握るのは、文字か音か。表音/表意の区分をもって、その二つの文字文化は対立的に語られ、文化傾向の向こうに対比的なアイデンティティが打ち立てられる。だが、そのような区分はそうすっきりと敷衍できるものでないことは、ちょっと応用してみるとすぐにわかる。アルファベット語彙においても、発音されない綴りや、語幹に表意の効果をみることもできるだろう。そして先述のような難読熟語の例においても、漢字が表音記号のように扱われるケースも少なくないし、ほかでもない日本語においては漢字にくわえ、さらに2種の表音記号が混交して使われているのだから。
注目したいのは、音訳に使われた漢字だ。仏教史研究者である船山徹の『仏典はどう漢訳されたのか』によれば、音訳においては有意味な文字列と誤解されないように区別するため、新たな漢字を作って使用したり、音訳のために近似した漢字を使い分けたり、ほとんど音訳でしか用いない漢字の並びを用いたりしたという。たとえば、「梵」「塔」「魔」などの漢字を新たに作り、漢字の音韻体系には本来存在しないエル(l)とアール(r)の「ラ」を区別するため「攞」と「羅」を使い分け、「仏」も「陀」もそれぞれに意味をもつが、二つが隣り合うのは音訳においてのみとした[※3]。近似するマイナーな漢字をあえて使用し、あるいは通常は隣りあうことのない漢字の並びをつくることで、拡散する「読み」の重心を絞り、擬似的に収斂させる。このような処理が興味深いのは、漢字を表音記号として扱う際には、字の音を顕示せんとする操作と、字が喚起する形象のイメージを鎮めんとする操作が並行して同時に行われていることだ。

排除と包摂、そして包囲

表音文字/表意文字の区分を、別の観点で捉え直したい。それぞれの文字において、先述した「読み」――「その字の意味に到達しうること」と「その字と連関した音」――の二つが互いにどのように関係しているか、だ。「表音文字」において、その字が示す音がわかることは字の意味に到達しうることをほぼ保証するだろう。しかし「表意文字」、とりわけ漢字においては、音がわからないまま字に意味を見出せたり、意味を見出せないまま字から音がわかったりすることはありふれている。そして、そのどちらもが語の正統な「読み」を必ずしも保証しない。漢語が訳語でありながら同時に外来語であることに直面する日本の仏教書においては、その条件はいっそう露出することになる。
つまり表音/表意の区分は、音と字の連関によって「読み」が収斂するのか/拡散してしまうのか、という区分をこそ扱っている。音と字のどちらが意味の中心にあるのか、ではなく、音と字の連関の信用/不信こそを問うている。そしていうまでもなく、ここまで扱ってきた難読熟語の「読みにくさ」は、漢字の「読み」に潜在する根源的な不信が露呈した状態を指すのだ。
そして、一つの文字言語は、表音文字/表意文字の区分のなかでどちらかに閉じ込められているのではなく、さまざまな運用のなかで二つを行き来している。くわえて、先述の漢訳の例にみてとれるように、「読み」の収斂/拡散、つまり音と字の連関への信用/不信のパワーバランスもまた、ゼロサムではない。二つは不可分であり、加減と工夫の方法がすでに実践されていることがわかる。
なるほど、聞き慣れない音の用語が出現するたびに、いっそう重厚なルックスの漢字が登場したり、似つかわしくない字の並びがつくられたりしていたのは、本来は可読性のための工夫であったわけだ。「麺(ビャンビャンメン)」に「夜露死苦(よろしく)」。表意への不信によって表音の信用を買っているのだ。新しい字の創出はそのうちAIが偶発的に行なってしまうのかもしれない。もっとも、僕たちがその事実に気づけずに「読めてしまう」ことが次の問題だろうが。

視覚的なストレスを解決するためにカタカナ―漢字―ひらがなの配分量を調整することと、3種の文字の語彙による連絡が翻訳の必然性を兼ねていること。この2つが解決されたところに、理想的な「読みやすい」文章がある――ならばその工夫は、「なんとでも読めてしまう漢字」に対し、排除と包摂の効果をみせる二種の表音文字を組み合わせ、消極的な「包囲」によってその「読み」を収斂させんとする営みなのかもしれない。
ひるがえって興味を惹かれるのは、音に喚起される意味が字によって加減される側面についてだ。カタカナによる「音の無意味化」とひらがなによる「音の多義化」とを思い出されたい。むろんこれは仮名の来歴、ひいては訓読みについての問いを呼び込み、批評においても繰り返された日本語についての議論の入口となる論点だろう。だが、まだ本稿の議論はそこに届いていない。というか、まだ教義の端にも触れていない。
しかし、これで足掛かりとなる言葉を得た。漢訳(ひいてはその日本語訳)において、「声」と「字」のカップリングをつくるはずの「読み」は必ずしも一定ではなく、不信に晒されている。拡散してしまう「字」の「読み」は消極的にしか収斂させることができず、それはまず「字」が自律的に試み、解釈の手がかりを託している。ならばここで、字が読まれることと声が書かれることを、一度切り分けて考えてみたい。
それというのも、日本の仏教には経典のほかに伝来した、「声明」が存在するからだ。声明とは、僧侶が仏陀の説いた経典や、それらを解説した文章を暗記し朗唱する際に、旋律を付したものを指す。そもそもは古代インドにおいて音韻学を含む言語学を意味していたsabda-vidya(シャブダ・ヴィドヤー)は、中国を介し「梵唄(ぼんばい)」つまり聖歌と同義のものとして日本に伝わった。のちに「語り」の芸能のルーツとされる「講式」を生む声明は、日本の音楽の原初的な形態ともされ、奇妙な「楽譜」を残したことでも知られている。字間から伸びる、幾重にも屈折した波線。

次なる問いだ。この線は、声の何を書いている?

 

[※1] なおApple社が先立って公開していたプレスリリースにおいては、「ALS(筋萎縮性側索硬化症)や徐々に発話能力に影響が及ぶ可能性のあるその他の病気の診断を受けてまもない人など、発話能力を失うリスクがあるユーザーにとって、Personal Voiceは、自分が話しているように聞こえる声をシンプルかつ安全に作ることができる方法」と説明されている。筆者はその福祉的意義の達成にはなんの異論もない。ここで問題としているのはあくまでも、この機能に類する技術が複数開発され、限定的なケースを超えて一般に利用されたと仮定した場合に想像される、声と字の関係の転倒である。
「Appleは、認知のアクセシビリティのための新機能のほか、Live Speech、Personal Voice、拡大鏡のPoint and Speakを導入します」、Apple Japan、2023年5月16日公開(閲覧時:2023年9月21日)、URL: https://www.apple.com/jp/newsroom/2023/05/apple-previews-live-speech-personal-voice-and-more-new-accessibility-features/

[※2] 柄谷行人は『日本精神分析』にて試みた日本語論において、カタカナの効果に関して以下のように述べている。「現在では、西洋の概念が翻訳されることはめったになく、ほとんどカタカナで表示されます。外来語は、話されているときには外来的であることはさほど意識されないけれども、書かれるときはカタカナによってその外来性が明示されます。また、時には仮名か漢字で書くべき日本語をわざとカタカナで書いて、外来的な異化効果を与えるときもある。つまり、漢字やカタカナで表記されるかぎり、外来的なものの外来性が、どこまでいっても保存されるのです。」(柄谷行人『日本精神分析』、株式会社文藝春秋、2002年、70頁)

[※3] 船山徹『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』、株式会社岩波書店、2013年、181-189頁

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黒嵜想(くろさき・そう)
1988年生まれ。批評家。極セカイ研究所所長。批評誌『アーギュメンツ』(2015~2018)での連載・編集をきっかけとして活動開始。現在、音声論を主題とした書籍『ボイス・ロンダリング(仮題)』と、南極大陸を主題とした雑誌『P2P』ならびに論考「極論」を準備中。また、各ポッドキャストにて「ボイスメモ(3600±600)」を配信している。

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