声をかく|(2)首相のプロンプト


ボイスロイドとしての岸田文雄


「まず謝罪の前に、なぜ私があのような行動をとってしまったのか? その経緯を説明させていただきます」
SNS上に投稿された動画のなかで、第101代内閣総理大臣である岸田文雄は、原稿を手に持ち、深刻そうにも無関心そうにも聞こえる、つまりあのいつも通りの声色で「謝罪文」を読み上げている[※1]。ただし以下のように続けて。
「ニコニコ動画やYoutubeでは(中略)MADと呼ばれる動画を作り投稿する文化がございます」「私が岸田総理の、AI動画をアップロードした7月には」……。
いうまでもなく、この動画で流れている岸田首相の音声はAIによって出力された人工の「読み上げ音声」である。
——「この度は本当に申し訳ございませんでした」

2023年11月6日。松野博一官房長官は記者会見にて、AIで作成した岸田文雄首相に関するフェイク動画が拡散したことを受け、偽情報の投稿に対し「民主主義の基盤を傷つける」として自制を呼びかけた[※2]。当該動画は、日本テレビのニュース番組が実際に報じた映像を一部加工した画面のなかで、みだらな表現を含む「コピペ文」をAIによって自動生成した岸田首相の音声で読み上げるというものだった。1時間ほどで作成された動画はSNS上でまたたく間に拡散され話題となり、日本テレビからはもちろんのこと、官房長官による注意喚起までをも呼び出すにいたった[※3]。しかし虚しいことにそれらの警告は、当のAI音声によって「謝罪文」を読み上げるという、さらなるジョークによって応答されてしまう——。
結論から述べる。筆者は、この岸田首相を冷やかす一連のジョーク動画を、近年の首相批判にみられた「棒読み」の指摘に地続きの皮肉であると考えている。これはたんなるAI技術を悪用したデモンストレーションではない。当の岸田首相そのひとをも「読む機械」として嗤う批評なのだ。

安倍晋三―菅義偉―岸田文雄の3人の首相の任期をつらぬく、報道の関心軸の一つとして「会見のスタイル」を挙げることができるだろう。体調不良にて辞任した安倍晋三元首相に代わり任期を務めた菅義偉前首相が、用意された原稿の「棒読み」を幾度となく批判されていたことは記憶に新しい。その指摘はコロナ禍での対応をめぐる会見の際にも記者からなされ、SNS上で大喜利的に冷やかされることもしばしばであった[※4]。そんな「棒読み」批判に対応して、菅前首相が会見に導入したことで話題になったのが、演説用の原稿を、目線の高さに掲げられた透明なボードに投影するスタンド機器「プロンプター」だった[※5]。この機器によって発表者は、視線を伏せることなく演説を行うことができる。
海外の政府高官による会見ではお馴染みのプロンプターだが、首相がこの機器を本格的に会見へ導入したのは、安倍政権より以降のことだろう。だが興味深いのは、2020年8月の安倍元首相による辞意表明の会見においては、この機器の「不使用」が話題となっていたことだ。声を震わせ、目を潤ませながら「断腸の思い」を語った安倍元首相に対し、ある記者が、プロンプターを使用せず会見を行ったことについての心情を尋ねた。安倍元首相はこの質問に笑顔で答えている。このやりとりは同会見において注目を集め、同日にはTwitter(現:X)上で「プロンプター」がトレンドワードとなっている[※6]。安倍元首相は2013年以降よりプロンプターを幾度となく使用していたが、この機器の存在がもっとも広く意識されたのはその「不使用」を指摘された会見であった。そして、彼に代わって任期を務めた菅前首相においては、プロンプターの使用自体が政治的なアピールとして機能することとなった。
しかし皮肉なことに、次代の岸田首相においてはその菅前首相によるアピールの効果が反転したかのように、とうとうプロンプターの使用が批判の俎上にあげられ、それどころか、記者との質疑に際して手元のメモを見たか否かの所作すらも注目されるにいたってしまう[※7]。岸田首相が打ち出した「聞く力」というコンセプトは、以上の文脈をふまえて捉え直したい。本人も取材に対して述べているように、それは菅前首相へのバッシングに適応して打ち出されたものだが、その要点は「話す力」への評価、つまり演説の迫真性をめぐる評価軸そのものから降りることにあったのではないだろうか。
安倍元首相においてはプロンプターの不使用によって透明性が、菅前首相においてはプロンプターの使用によって迫真性がアピールされた。そして岸田首相においては、もはや「話す力」つまり「声」への不信を前提にして「聞く力」がアピールされている。会見中、岸田首相のメガネにときおりプロンプターが映り込んでしまう様子なんて、それ自体がすでによくできた皮肉だ。

そもそも冒頭に参照したフェイク動画の件が注目される以前から、AI技術を利用したボイスチェンジャーのデモンストレーションに岸田首相の声が使用され、それを本人に聞かせて反応を見るような報道が話題を集めていたことを思い出したい[※8]。複製された「声」によるパーソナリティの毀損が、岸田首相そのひとに対しては極めて無邪気に楽しまれていた背景には、上記のように棚上げされた「声」への不信が関係しているように思えてならない。
プロンプターの不使用/使用がパフォーマンスの拠点とされたことで、かえって事前に準備された「原稿」の存在がより前景化し、質問への「対話」自体が不信にさらされてしまった首相会見。奇妙にもそれは、AIへのリクエストをあくまでも「質問」の比喩で入力させんとするチャット型のAIツールに対して、目的の出力を促す文章を「プロンプト」と称してコマンドを開発・共有するユーザーたちの姿と好対照を為している。 
一国の首相もまたプロンプトを入力された読み上げ音声ソフト、いわば「ボイスロイド」に過ぎない――きっと彼自身もプロンプターを駆使してそのように自己をパフォーマンスしているのだから――冒頭にあげたフェイク動画には、そんな二重のシニシズムを読み取れるのではないか。

国民の「声」の代弁者たる首相の言葉が、プロンプトの通路としての読み上げ音声になる。他方で、目的の出力を促すプロンプトを「質問」として擬声化することで、AIとの「対話」が実現する。これらが、現在「声」がおかれた位置である。
この連載は、ChatGPTという対話型AIツール、自動音声認識、そしてiPhone向けオペレーションシステムiOS17にてリリースされた、任意のユーザーの音声を素材にした合成音声を生成する機能「パーソナルボイス」を並べるところから問題提起をおこなった。私たちのコミュニケーション観の基礎となっている「声=字」のイコールは、いまや逆様にも読み込まれ、私たちの声は「字を読み上げた音声」に置き換えられつつある。ならば当然、それは自動化して差し支えないものとなる。AIを利用した岸田首相のフェイク動画は、そういった技術的な状況のさらなる進行を示すモデルケースであるばかりでなく、生身の人間の声もまた「読み上げ音声」のように話されうる/聞かれうる側面をも示している。いわばこれらは、二つの極点において表れた「パーソナルボイス」の信用崩壊だ。
今一度繰り返そう。「声」と「字」のあいだにあるイコールをいったんときほぐし、デッドロックから逃れる必要がある。私たちは前回、仏教書における字の「読み」についての考察をきっかけに、「声をかく」ことと「字を読む」ことを分けて考えることを提案した。続いて考えたいのは、両者のあいだを具体的な「声」でとりむすぶ読み上げのパフォーマンスについてだ。三人の首相における会見のスタイルの変遷が表していたのは、「字を読む」ことにまつわる権威のコントロールと、その崩壊であった。

ならば今回は仏教音楽「声明」を訪ねることとしよう。宗教儀礼は、政治活動以上に切実な「字を読む」声の権威を扱っているはずだからだ。文章を読み上げる「声」はそこで、どのようなものとして聞かれているのか。

仏教音楽声明、二重の権威

 
字間から伸びる、幾重にも屈折した波線。まるで図形のようにも見えるこの経文は、仏教音楽「声明(しょうみょう)」の譜面である。これらの波線は、「声」のかたちを描いたものだ。

『魚山顕密声明集略本』石室静洞書入本より「総礼伽陀」(魚山大原寺實光院蔵)

声明とは、仏教の伝統的儀礼音楽のことを指す。音響としては、一本のふし(旋律)しかもたず、伴奏が付かない男声で唱えられる「声楽」として知られている。儀礼において、経典や、それらを解説した文章を暗記し歌い、あるいは朗唱する際に旋律を付したものだ。古代インドにて仏教とともに興り、のちに中国・朝鮮半島を経由して日本へ伝来したこの儀礼は、中世以降に生じた歌舞伎や浄瑠璃といった「語り」の芸能のルーツであるとも言われている[※9]。日本に仏教が伝来したのは6紀ごろだが、752年の東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた際には、国中から1万人の僧侶が集まり、420人で声明を披露したという記録が古文書『続日本紀』18巻に記されている[※10]。いまもなお文献学的なアプローチによって、その繊細な定義と巨大な系譜が再解釈される「声明」だが、以下、本稿の興味にかなう二つの側面に限定して概略を続けよう。

一つ、名称の経緯について。
「声明」の語源は、古代インドにおける音韻・音律の学問であったsabda-vidya(シャブダ・ヴィドヤー)である。「声明」はその音写語であり、中国においては原語に則り言語学を指し、儀礼における讃歌は「聖歌」という意味合いで区別して「梵唄(ぼんばい)」と呼んでいた。日本でも同じく、当初は讃歌を「梵唄」「讃」としていた。
日本における最初期の声明は、奈良に伝わったとされる奈良声明であるが、現在にまでつたわる流派の主たるルーツとなっているのは、真言声明と天台声明の二つだ。9世紀の始めに空海が真言声明、中頃には円仁が天台声明を中国から伝え、宗派ごとに独自の発展を遂げた。声明が一番発達したのは平安時代の末から鎌倉時代にかけてのこととされており、この時代に声明の音楽理論、記譜法、楽譜集、教授法などが整備された。そして鎌倉時代初期に天台宗の湛智(たんち)という僧侶が雅楽の理論で声明楽理を説明した『声明用心集』を著し、その前後から現在のように「声明」という言葉でこれらの声楽をまとめて呼ぶようになった。「声明」を声楽の意味で扱っているのは、日本のみである[※11]
興味深いのは、本来は外来の言語の発音にまつわる「言語学」を意味していた「声明」が、母語の読み下し文の歌・語りを含む「声楽」へと意味を拡大したことだ。権威の根拠をあらわす外国語の音韻・音律の再現が、美的な表現を多様に追求し伝承する声楽と合流し、その名称の意味を混濁させた(ちなみに「声明」の定義を外来の言語を歌うもののみとする立場も存在する)。
「読み」にまつわる権威の重心が増えたことについては、他にも痕跡を見ることができる。

二つ、記譜法の経緯について。
声明の伝承は、口伝を基本としていたが、その伝承手段として「博士(はかせ)」と呼ばれる独自の「楽譜」を発達させた。なかでも、天台声明においては古博士、五音博士、目安博士(只博士)といった複数の形態が開発されていた。興味深いのは、これらの譜面が複雑な波線を組み合わせた記述で成り立っている点だ[※12]。その発達にともなって、当初は漢字のあいだをわずかに伸びる端書きのようなものに過ぎなかった波線は、長く、広くのたうって伸びるように推移した。
描かれているのは、歌詞の音高(ピッチ)と音価でかたち作られた旋律型だ。その記譜法を整理する分析が、例えば横道萬里雄・片岡義道らによる『声明辞典』に確認することができるだろう[※13]。これらの分析を参照するならば、時系列に沿った展開としては、博士は絶対音高への意識が強まるものにありながら、やがて旋律型を伝えることに比重をおくものへと移ったものと概観できる。さらに天納傳中によれば、「古博士」においては外来語の発音を正しく再現するように努めていた記譜が、のちの「五音博士」においては原語のアクセントよりも音高を明確に表すことを優先するようになり、やがて旋律表現を図示することに重点を移した「目安博士(只博士)」にいたったのだという[※14]
だが、さらにくわえて興味深いのは、この記譜があぶりだす継承の困難だ。一瞥して察せられるように、これらの波線によって記述された博士は、私たちがふだん楽譜と理解している五線譜をはじめとした形式のものと異なり、主観的な記述が多分に含まれている。声明研究者の岩田宗一も指摘するように、博士は演唱の再現を絶対化するための寄りどころではなく、あくまでもその曲の伝承を受けた者の備忘程度の役割しか与えられていないものだった[※15]今回では詳しく触れないが、朗誦の再現性と伝承の正統性をめぐって、天台宗においては二人の僧侶が激しく論争を繰り広げたことがあった。
重要なのは、この記譜法の変遷自体が示しているように、声明の実践にはすでに経典の教学的な権威性とは別にして、実践者の声色に美的権威性が宿っていたことだ。言い換えるなら「記された字」によって読み上げられる経典の内容とは別に、それを「読み上げる声」自体がパフォーマンスを成立させる権威となっていたことがわかる。しかし、それだけではない。仏教儀礼を研究する大内典はこの記譜法が、むしろ記述不可能な個人の身体性を浮き彫りにすることを指摘し、教学と伝承する個別の身体との「二重の権威」を実現するものだと分析している[※16]
そしてその二重性は、これが「声」を元手にした儀礼であることとも深く関係している。どういうことか。  

声—字、声—身体、声—身体—人格

平安時代後期から中世にかけては、声明はもちろんのこと、唱導や今様といったものも含め、「音」や「声」をあつかった芸能が注目を集めていた。上皇から市井の人々に至るまでそれらの芸能が広範に親しまれていた背景で、「声仏事を為す」という意味の「声為仏事」なる一文に集約された声の思想が伝播していた。しかし、大内によればその「声為仏事」は、中国天台仏教の始祖である智顗(ちぎ)が本来唱えていたものとは重心が異なった読み込みが加えられたものであったという。
大内は、源為憲(?~1011年)がその著作『三宝絵詞』(984年)において述べた「声為仏事」と、典拠となった文章で述べられているそれとを比較し、そのニュアンスの違いを抽出したのち以下のように結論づけている。 


このように、声明という声のわざは、安定した音高感覚、旋律型の正確な唄い分け、楽理に裏づけられた個々の音の機能に沿う表現の理解、それを可能にする声のコントロールといった、種々の技能を求めるものであった。それは、『声明口伝集』のいう「菩提薩埵三世如来ノ御声ヲマナヒウツス」という宗教的意義を、人間の声、人間の身体能力によって具体化するものでもあった。逆に言えば、それは、人間の身体性、身体能力をいわば「仏事」の中に積極的に組み入れる姿勢を意味する。ここには、「声為仏事」が独自の展開を遂げた姿をみることができるだろう。本来は、人間の住む世界においては仏の教えは言葉を通して、聴覚を通して現れる、という意味であったこの言葉が、生身の人間の発する声が仏事そのものとして機能する、という意味へ転じ、声明の美的表現力に教理的な正統性を保障(原文ママ)した。ここに、規範にかなった響きで唱えられる声明は、その美的感覚的な表出力によって、美的権威と宗教的権威を二重に体現することになったのである。[※17]


本来の「声為仏事」において重心がおかれていたのは、あくまでも聴覚にとどく仏の言葉の権威であり、それを伝達するものとして「声」を称揚していたに過ぎなかった。しかし、声明の隆盛をも手伝った「声為仏事」においては、「声」は物理的な音声の働きかけによって仏事に通じるものと読み替えられ、身体技術の美的洗練に対しても権威が保証された。

「声」を蝶番にした、宛先の異なる二つの権威の重ね合わせ。大内の指摘は本稿にとって、きわめて重要な示唆をもたらす。なぜならば、ここで分析されている「声為仏事」の拡大解釈と、その成果である権威の二重化は、いずれも「声」という語の特殊なステータスに関係しているように思われるからだ。
一つ、声は私たちの個別の身体から発される。二つ、文字は声を書き写したものである。これら二つの生理的・歴史的前提が重ね合わされたところに、「個人の声」が「普遍の字」を綴って自身の内から言葉を紡いでいるのだ、というコミュニケーション観が作られている。そして、言語で表現されているのが当人の「内面」であるとする限り、声が帰属する身体の、さらにその最奥に言語が帰属しているように想像することができる。
近代的な社会が前提とする「声」を単位にした比喩的な「個人」のモデル、「声—身体—人格」といった単線的な連関はこのようにしてかたち作られる。漫画における吹き出しの表現はそれをコンパクトに再現したものだ。「声」という語はこのようにして、個人の内面や政治的主張を意味する隠喩となっている。
しかしこの配置イメージ「声身体—人格」は、発声者の立場からはともかく、聴取者の立場にスイッチすると奇妙なものに思える。声色と言語はともに外へと吐露されており、同時に聞き取られている。にもかかわらず、両者の配置に事後的に時間的な順列が与えられているからだ。声がそれを発した物理的身体を指し示し、声に現れた言語がその身体の抽象的な「内面」を指し示す。それは発声者の立場での実感を逆照射したものにすぎず、聴取者の立場からみれば、その順列は自明ではない。

たとえばそれは、「声」が既存の文章を「読む」とき、あるいは「読んでいる」可能性が想像されるときに際立つ。冒頭に引いた、菅前首相、岸田首相の会見への批判を思い起こされたい。私たちは首相の「棒読み」を批判する際、その声が原稿に帰するのか、それとも彼個人に帰するかを糾弾していたのではなかったか。つまり「読む」行為において声は、聴取者にとってみれば一方で「特定の身体から発された音響」であり、他方では「字を読んだ音響」でもある、二重の近接性をそのままに保有する記号なのだ。
「読む」という行為が権威として機能する宗教的な儀礼においてはとくに、このような効果が顕在化するのは必然的だろう。
声には、抽象的記号との(順列が不明な)時間的な近接「声—字」と、具体的身体との空間的な近接「声—身体」との、少なくともカテゴリーの異なる二つの近接性が束ねられている。この二つのうち一方が基底となり、他方を包摂するような順列を設ける理解は、事後的につくられた錯誤なのだ。
そして大内の指摘した「二重の権威」とは、「声—字」の近接性において教理に認められた権威と、「声—身体」の近接性において発声者の身体に認められた権威とが、統一されたひと繋がりの順列を作らぬまま、併存した状態を指している。
さらにいえば、その「二重性」は、声明が声をともなった朗誦である以上、他のレベルにおいても同様に浸透しているのではないだろうか。言語学を意味していた「声明」が伝承されるうちに声楽をも意味し、博士が教学とそれを伝承する個人の身体とに同時に権威を与えていたことを思い起こされたい。これらはいずれも、「字」に認められた権威と、「身体」に認められた権威とが、「声」という語のもとで知らずのうちに重ね合わされ併存したことの効果なのではないだろうか。

交換喩

さて、以上の考察が本稿にとって重要なのは、換喩記号としての「声」のはたらきに別なる側面を見ることができるからだ。「換喩」とは修辞学上の用語で、「隠喩」とは区別された比喩表現を指す。隠喩は、ターゲットとなる対象を概念区分の異なる言葉で慣例的に表現するものを指す。「心の声」しかり、「声をあげよう」しかり。話すはずのないもの、あるいは音声を伴わない政治行動に「声」をあてはめるのは隠喩表現である。対して換喩は、空間的あるいは時間的に連続した近接性によって、ターゲットとなる対象を代替して表現することだ。あくまでも文語表現に関する用語であるため本来はあてはまらないが、声がその特定の個人の身体を表し、あるいは特定の文章の存在を指し示すのは、「換喩的」な機能だということもできるだろう。

「声」の隠喩は、日常における声の換喩的な機能によって規定される、声身体—人格の単線的な連関で作られたモデルを慣例とし、応用することで成り立っている。しかし、それはあくまでも発声者の立場でのみ保証されるモデルであり、聴取者の立場から見返してみれば、声—字と声—身体との二つの異なる換喩的な関係を重ねた錯誤に他ならない。言い換えれば、「声」は声—身体—人格といった単線的な連関を結んでいるのではなく、その実、異なる二つの換喩を束ねた集線(ハブ)的な連関を結んでいるのだ。
そのうえであらためて興味をひくのは、これらの集線された換喩的関係がつくる錯誤のはたらきである。束ねられたこれらの関係は「声」という媒介を利用して、別なる系列へと読み替えられたり、異なる系列のあいだで短絡したり、系列のなかで順列を組み替えられたりしている。声をあつかった儀礼が教文の権威とあわせて実践者の身体の権威をも育ててしまうことも、書かれた文字が「内なる声」だと隠喩的に表現されることも、声が字を読み上げたものだと逆様に捉えられることも、それぞれ換喩的関係の扱いにおける三者三様の錯誤だ。この問題をどのように追いかけるべきか。

筆者はここで、以上のような「声」の換喩的なはたらきを「交換」という言葉で捉えたい。この言葉には、異なるもの同士の「入れ替え」と別なるものへの「取り替え」にくわえ、通信事業における交換機のはたらき「接続」をあわせ、三つの意味が含まれている。そのうえで、換喩的な関係を集線しこのような「交換」を来たす記号、つまり「声」を、「交換喩」と呼ぼう。かつて電話局にて手動で回線を繋ぎかえ、伝送を助けていた不可視のエージェンシー、電話交換手たちになぞらえて。

私たちがここまでの連載で探求してきたのは、交換喩としての「声」のはたらきだったのだろう。とくに注目したいのは、この「交換」効果によって、いくつかの特定の換喩的関係が個別性と引き換えに系列を一つとされ、「声」の隠喩化を実現していることだ。ならば「交換」の内実によっては、「声」の隠喩化にはまったく別のかたちがありうるのではないか。では、そのとき「声」の隠喩は個人の言葉(内面)でなく、何になるのだろう。それは「パーソナルボイス」が信用崩壊をきたした先にある荒野を予見させるのか、それとも新たな拠りどころとする権威を示すのか。それぞれ次回以降で詳しく吟味したいところだが、この視座はくわえて、音声認識・合成音声技術の導入における福祉的コンセプト「アクセシビリティ」なる概念の検討にもヒントを与えるものともなるはずだ。

ようやくターゲットの一つが明らかになった。私たちは前回「字の読み」について扱い、「字を読む」ことと「声をかく」こととを分け、今回は両者をとりむすぶ「字を読む」声について扱った。そろそろ連載のタイトルに辿り着くころだ。次回は「交換喩」とそのはたらき、本稿では概略にとどまった「声明」の伝承と実践について、さらに分け入ってみるとしよう。
私たちはいかにして「声をかく」のか?

 

[※1] ソーシャルネットワークサービス「X」(旧「Twitter」)にて投稿された以下の動画より抜粋。2023116日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://twitter.com/coldcase666/status/1721374753213288875

[※2] 「首相の偽動画「民主主義の基盤傷つける」松野官房長官」、ウェブ版日本経済新聞、2023116日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA062D70W3A101C2000000/ 

[※3] 「岸田首相の偽動画、1時間で作成 AI使いSNSに拡散」、ウェブ版東京新聞、20231110日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://www.tokyo-np.co.jp/article/289186 

[※4] 「菅首相会見、メッセージ伝わりました? 記者からも『原稿棒読み』指摘… 「あ、イラッとしてる」と見た人の声」、ウェブ版東京中日スポーツ、2021817日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://www.chunichi.co.jp/article/313045 

[※5] 「プロンプター」とは本来、舞台上の出演者にむけてセリフを伝えるカンニングペーパーや人員のことをも指すが、本稿では演説用のオートプロンプターの通称として用いている。 

[※6] 
以下の二つの記事を参照した。
「首相「志半ば」 潤む目、震える声 プロンプターなしの辞任表明」、ウェブ版毎日新聞、2020828日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://mainichi.jp/articles/20200828/k00/00m/010/287000c
「「プロンプター使用されていないが...」辞意表明の安倍首相、記者に問われて笑顔で...」、JCASTニュース、2020828日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://www.j-cast.com/2020/08/28393111.html 

[※7] 
「菅氏を「他山の石」に? 初会見、手元のメモ見なかった岸田首相」、朝日新聞デジタル、2021105日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://www.asahi.com/articles/ASPB56FY7PB5UTFK015.html 

[※8] 
「岸田首相の声まね、AIなら自由自在? 技術者らが官邸で実演」、朝日新聞デジタル、202359日公開(閲覧時:2023124日)、URL:https://www.asahi.com/articles/ASR5975X9R59UTFK016.html 

[※9] 岩田宗一『声明は音楽のふるさと』、法蔵館、2003年、16

[※10] 天納傳中『天台聲明概説』、叡山学院、1988年、40

[※11] 岩田宗一『声明は音楽のふるさと』、法蔵館、2003年、11頁

[※12] 余談だが、キリスト教の原初的儀礼音楽、8世紀のグレゴリアン・チャントという聖歌において使用された「ネウマ譜」との形式的な共通性を語られることも多い。機会をあらためて論じたい。

[※13] 横道萬里雄・著/片岡義道・監修『声明体系特別付録 声明辞典』、法蔵館、1984年

[※14] 天納傳中、前掲書、134-135頁

[※15] 岩田宗一『声明の研究』、法蔵館、1999年、64頁

[※16] 大内典『仏教の声の技 悟りの身体性』、法蔵館、2016年、118頁 

[※17] 大内典、同書、116頁

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黒嵜想(くろさき・そう)
1988年生まれ。批評家。極セカイ研究所所長。批評誌『アーギュメンツ』(2015~2018)での連載・編集をきっかけとして活動開始。現在、音声論を主題とした書籍『ボイス・ロンダリング(仮題)』と、南極大陸を主題とした雑誌『P2P』ならびに論考「極論」を準備中。また、各ポッドキャストにて「ボイスメモ(3600±600)」を配信している。

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