声をかく|(3)他人の声色をうかがう


今すぐ避難、今すぐ避難


元日。スマートフォンを片手に、食い入るようにテレビの画面を覗き込んでいた。画面には石川県は能登半島の沿岸部、浜の様子が中継されており、縁取られた映像のすぐ脇には「逃げろ!」とのテロップが巨大なフォントで表示されている。夕暮れを過ぎ、青黒くなった空を背景に寄せては返す波に、女性のアナウンサーの声が重なる。

——今すぐ避難! 今すぐ避難! 大津波が来ます!

2024年1月1日16時10分ごろ。石川県能登半島で最大震度7の揺れを観測した、「能登半島地震」が発生した[※1]。 日本海側沿岸部を中心に甚大な津波・火災被害を各都市にもたらし、本稿執筆時である1月28日においてもなお、被災地のダメージは凄惨な痕跡を現地に見せている。今度の震災も例に漏れず、各種マスメディアでの報道やSNS上の投稿において、2011年3月11日の東日本大震災と比較する向きが散見された。その比較のなかで、地震直後に話題の一つとなったのは、NHKの実況報道で発された「絶叫調」のアナウンサーの声であった。
まるで叱責しているようにも聞こえる強い口調に、SNS上ではその適切さを疑う声もあがったものの、報道関係者による弁明と擁護が相次いで投稿されることとなった。曰く、この「絶叫調」は、東日本大震災での反省が活かされている。先の震災では、「情報」を伝えることはできたものの、その切迫性を伝えることが叶わず、避難の促しが十分でなかった。さらなる被害の拡大を伝える非常時のニュースは、アナウンサーが範としているような冷静中立に情報を伝える無感情な声色ではなく、事態の切迫性そのものを伝えるため、ふだんと異なる絶叫調の声色が効果的なのだ——。管見の限りでは、今回の報道は以上のような論旨によって擁護・賞賛されている。 筆者もこれに同意する[※2]
けれども妙に気にかかる。
今すぐ避難、今すぐ避難。絶叫の声色とあわせて耳に残る、特定のフレーズが。

哲学者ジョン・L・オースティンは『言語と行為』において、言語の「記述的」「事実確認的」な領域とは区別して、発話そのものが行為として働きかけるような言語領域を「行為遂行的発話」と呼んだ[※3]。 ベタに内容を伝えることが目的の発話と、伝えることでメタに相手に働きかけるような発話を区別し、その条件を分析するためだ。後者のような発話は、真偽ではなく適切か否かが問題となる。今回の報道におけるアナウンスをめぐる評価はまさに、オースティンの言語行為論の好例であるように思われる。警告の成否は、発信された情報の内容だけでなく、受信者の行動に与えた影響で判断されるからだ。
しかし、興味深いのはその発話行為における「声色」が問題となっていることだ。例に挙げたアナウンサーへの評価は、その実況が「事実確認的」あるいは「行為遂行的」どちらであるべきか評価を二分しながらも、同時に、一つの声色の操作で任意にどちらか一方の発話形態へとスイッチできることを前提にしている。

アナウンサーの無感情なあの声色は、それが原稿の「読み上げ」であることを隠さない。他方で、絶叫調の声色は「切迫性」をもって直接に該当区域の住民に語りかける。字を読む間接的(かのよう)な声か、直接的に語りかける(かのような)声か。
私たちは前回の論考において、首相のプロンプターの使用/不使用をめぐるスピーチの「棒読み」評価の変遷と、宗教儀礼としての声明の権威の変遷を見比べながら、声に潜在する「声—字」と「声—身体」との二重の近接性について考察した。先述した件は、その問題系の延長線上にある。
声を、個人の言語的な内面を外に吐き出したものとして捉える「声—身体—人格」モデルは、あくまでも声を発する側の実感で捉えた「声」観だ。しかし声を聞く側の実感から捉え直すなら、「声」はそこに含まれた「字」と、それを発する特定の「身体」との、二重の近接性を喚起する記号だ。その声は、内なる思いを告白したものではなく、たんに他の誰かが書いた文章を読み上げているだけなのかもしれない。ならば「声—身体—人格」モデルは「声—身体」と「声—字」との、カテゴリーが異なる二つの近接性を混濁した、短絡的な理解にほかならない。
「声—字」「声—身体」の二つの関係線を一つに統合し順列を入れ替え、「声—身体—人格」だとしてしまう。または、「字」が声を書き記したものだとする歴史的な前提にのっとった「声=字」の等号が、逆様に読み換えられ、声が字を読み上げる「パーソナルボイス」に置き換えられてしまう。あるいは、ソフトウェアが発する音声の向こうに、特定の個人の身体を想起してしまう。複数の近接性によって関係を集線した「声」が、異なる順列で、異なる系列を、繋ぎかえ連絡(接続)する。私たちは前回、換喩的な記号である「声」の以上のような働きを、通信事業における「交換」の語になぞらえて「交換喩」と名付けたのだった。
アナウンサーの声色をめぐる評価は、二重の近接性に接続された「声」のうち、どの関係線を強調し順列を組み替えるべきか、という「交換喩」の個別の交換について比較検討をおこなっているものだといえるだろう。

本件が重要なのは、この連載に二つの示唆をもたらすからだ。
まず、「交換喩」の働きがオースティンの述べるような発話行為の効果にも影響を及ぼすということ。次に、個別の発話における声色が、関係線の交換を操作しうること。以上二点を考えるため、「交換喩」における声色のはたらきについて問うことから始めたい。だがいうまでもなくそれは、声の原理的な記述不可能性に向かうパラドキシカルな問いだ。
経文と僧侶個々人の身体との二重の権威を内在させた仏教儀礼「声明」。今回注目したいのは、朗唱の正統性をめぐって対立した二つの流派の論争だ。彼らもまた、議論の過程で上記のパラドックスに直面することとなった。
「声をかく」ことの不可能性である。

浄心vs湛智

 
声明の二大立派である、真言声明と天台声明。空海によって真言宗の、円仁によって天台宗の教理・儀礼が中国から伝えられ、後者に含まれた天台声明はのち、良忍によって整えられた。良忍が天台声明の道場として開いたのが、京都は大原、観光地としても知られる三千院に近くにおかれた来迎院だ。
天台声明への、僧侶たちの意識を決定的に変えたとされる書物が二つ存在する。安然(あんねん、841-889/898)が記した『悉曇蔵(しったんぞう、880)』と、湛智(たんち、1163-1237?)が記した『声明用心集(しょうみょうようじんしゅう、1219)』である。前者はのち国学においても重要な日本語の音韻論となる「悉曇学」の始原とされる書物であり、これに多大な影響を受けて記されたのが、声明の体系的な楽理理論である後者だ。この『声明用心集』を記した湛智が、天台声明の実践に大変革をもたらした僧侶であり、以降に紹介する論争の中心人物である。

では、その論争はいかなるものであったのか。
発端となったのは、湛智とその兄弟子の浄心(じょうしん、1098-1166)の衝突だ。来迎院恒例のとある法要にて、湛智と浄心がともに着座して「普賢讃(ふげんさん)」を唱えた際、そのテンポのとり方をめぐって争った[※4]。 これを機に声明の正統性や理論をめぐって、湛智派と浄心派それぞれの弟子による擁護、批判が激しく交わされ、その論争はなんと孫弟子にまで受け継がれることになる。この対立は、いわば大原流声明における革新派と保守派を象徴するものとなった。
世代を超えたこの論争について記録しているのが、湛智の流派を継ぐ宰円(さいえん、13世紀後半)による『弾偽褒真鈔(たんぎほっしんしょう、1275)』という書物である。これは、浄心の弟子である光覚(こうがく、生没年不詳)の批判に応えるために書かれたものだ。つまり本書は湛智派を擁護する書物であり、伝承系譜の正当性を訴える血脈や証言を伝え、声明理論に関わるやりとりも総括しつつ、宰円自身の批判的応答も記されている。
しかし、その内容はあまりに雑多かつ多岐に渡り、網羅的に要約できるようなものではない。本稿では、ここまでの興味にかかわる二つの論点を通過しつつ、限定的に触れてゆくこととしよう。以後いくつか引用する意訳は、声明研究の専門家である仏教学者、岩田宗一の研究のものだ[※5]

一つ、伝承系譜にまつわるゴシップについて。
 まず、本書の出現自体が物語っているのは、先の衝突を発端として、浄心派から湛智派への非難が長期にわたっておこなわれており、後者の権威が危ぶまれる状況にあったということだ。不当な評価とその口惜しさについて本書は、執拗にその伝聞経路を明記しつつそれらのゴシップを傍証として数おおく挙げている。
 興味深いのは、そこで争われているのが、あくまでも系譜上の正統性であることだ。これはそもそも浄心—光覚らによる湛智への批判が、「良忍以来の博士(声明の楽譜)を湛智が雅楽理論によって再解釈し曲そのものを変えてしまった」と主張したものであることに起因している。本書には光覚による批判が引用されている。岩田による意訳とともに、その主張の一部を参照しよう。
 


「湛智が唱える声明曲、始段唄・九條錫杖・云何唄・長音供養文等は、ことごとく良忍上人の譜と違っている。その譜には家寛を経て行家へ伝わった行家本と、有安に伝わった有安本がある。自分は行家本を借りて書写したので、湛智所用本との相違がわかるのである。浄心もこのとき、書写した。その本も自分の許にある。行家の許にあった良忍自筆本は今は印圓の許にあると聞く。もし湛智が良忍の伝統にしたがっているというのであれば、もう一本別の説にもとづく自筆本があったということになるが、そのようなものがあろうはずがない。湛智の声明は〈本説妄乱ノ新曲〉というほかない。しかし彼は雅楽の達人であるから音楽理論によく通じている。たとえ新曲であっても、きっと理論に叶っているであろうし、人々の耳をも引きつけることであろう。自分は声明のよしあしを評したのではない」⁠ 。[※6]


このように、浄心ひいては光覚が湛智に向ける批判とは、彼の唱える声明が、良忍以来の大原流声明の伝統を断絶した「新曲」なのではないか、という疑惑を主張するものであった。
これは、音楽文化学者の大内典が指摘する、声明に潜在していた「二重の権威」についての傍証ともなる主張だろう。声明は、特定の経文の権威を高める「読む儀礼」でありながらも、それが声を扱ったものである以上、不可避的に個々人の身体の権威をも同時に育てる。湛智に向けられた警戒は、この二重性による権威の侵食に対する懸念を表しているのだ。浄心—光覚らは、雅楽の教養に裏打ちされた、彼の朗唱の「正当さ」と美しさの権威性は認めつつも、その評価が「正統さ」をめぐる権威性とは混濁されてはならない、と述べているのだ。

二つ、博士の役割について。
先の引用部で光覚の主張の紹介は断ち切られているが、このすぐ後の箇所で宰円による反論が述べられている。本書のクリティカルポイントはここで述べられた彼の主張だ。宰円はそこで、博士の機能とその限界について触れている。岩田はこの箇所についても自ら意訳を試み、以下のように分析している。 

「本来音声は目に見えぬものであって、師匠から面と向かって口伝えに授かった曲を、のちに忘れないために一定の約束にしたがって「声のアカリサカリ」を書き留めたのが譜博士であるとし、譜博士のみを頼って、ふしが違う違わぬと論ずるのは博士の意味を理解しない者のいうことである、笛の穴も同様であって、一つの穴から出る音は七つの音階論に属するのであるから、それだけでは調やその中のどの音(五音以外の音)を示しているのかなど、旋律のかたちは見えないものである、というのである。
 (中略)
さらにここで注目すべきは「声のアカリサカリ」である。ちなみに声明のみならず、わが国の声楽にあっては、その譜の大部分は、拍やリズムを表現することにはほとんど努力が向けられて来なかったことである。声楽に携わる人々が楽譜に期待するのは声の上がり下がり、大まかな旋律の姿であった。楽譜に対して備忘以上の役割を与えなかったし、期待しなかったのである。
[※7]


大胆だが本質的な主張だ。宰円が述べているのは、朗唱者個々人への信用の向こうにある、いわば博士自体への原理的な不信である。しかし、それだけではない。岩田が紹介するところによれば宰円は他の箇所で、「大スカタ(ルビ:姿)、ニタカ(ルビ:違)ハスハ相違ト申ヘ(ルビ:可)キニアラズ」と述べており、これは音声の「表情上の個性」を含む「旋律の骨組みとなる音」を指した上で、湛智の声明が師匠の朗唱と全く同じであるわけがなく、またそれを確かめることもできない、と擁護したものであるという[※8]
博士は「朗唱の再生産」を保証するものになりえない。さらには、声明自体が音声の個別的な特徴を強く示すものであって、そもそも正統な口伝においても完璧には再現できないものである。宰円はこのようにして、音声の原理的な記述不可能性、再現不可能性そのものを暴露する。しかし、この主張は再批判にはなりえない。対立の土台そのものを崩す論理だからだ。彼は、湛智を擁護した論理でもって、浄心流の声明も認めなければならない。他ならぬ宰円自身も「どちらが違っていると、一方のみを非難しようとは思わない」⁠と述べているようだ[※9]
そして、宰円の「暴露」が妥当であるならば、なお一層「正統性」を保障する外的な根拠の価値はつり上がることになる。原理的には誰も彼もが「新曲」を始めている可能性があり、それは譜面と朗唱の内実だけでは確かめられないことになるからだ。この点を踏まえて、先の引用を読み返すならば、光覚が「新曲であっても、理論には叶っているであろうし」と留保しつつ、写本の所有と秘曲の伝承という事実にこだわったことにも別の側面が見えてくる。彼はここで、譜面や「聞こえ」といった内実から離れた、外的な事実確認によって正統性の外堀を埋めようとしているようにも思える。宰円同様、光覚らもまた朗唱の原理的な記述不可能性、再現不可能性を了解していたのではないだろうか。ならば、楽理上の妥当性が問題にならないのは当然だろう。
宰円にしても同様だ。結論としては前掲のようであれ、彼もまた血脈図や様々な証言を挙げて、多大な紙幅を費やして外的なエピソードを並べ、正統さの根拠を婉曲的に示す必要があったのではないか。

声明の朗唱における、僧侶の系譜的な正統性が争われた『弾偽褒真鈔』には、対立する両者のあいだで前提とされた声明の条件が炙り出されている。一方で、声明は音声による朗唱をともなった儀礼であるために、経文と個々人の身体とに育まれた権威が重ね合わされ、二つの評価を混濁させてしまう。しかし他方で、権威の正統性を定めるため伝承の確かさを比較すると、その基礎をなす博士と口伝への原理的な不信に直面することになる。
区別なく連続させてしまうのか、区別なく切断されてしまうのか。本書に記された論争が行き来するこのジレンマは、「声」の記述と再現にかかわる根源的なパラドックスに導かれているのだ

声の演戯性

光覚と宰円の論争は、湛智の朗唱をどの伝承経路におくべきかをめぐって争ったものだ。彼の朗唱に聞こえるのは「声—伝統的な譜面」であるか、「声—個人的な特徴」であるか。
しかし、その議論はそもそも交錯しているのかも疑わしい。そのやりとりからは、両者に属する声を区別「すべき」とする光覚と、そもそも声がどちらに属するのかは区別「できない」とする宰円との、それぞれの前提が確認できることはすでに述べた。しかし、いうまでもなく、二つの立場は同じ次元の価値判断ではなく、本来は対立をつくるものではない。それどころか、二人は互いの前提を織り込んで自説を述べている節すらある。二人は擬似的な対立を引き受けつつも、「声」にまつわる根源的なパラドックスを共有している。この連載の言葉におきかえるなら、両者は不可避の「交換喩」の機能を前提としつつ、主体的な「交換」の(不)可能性を議論しているのだ。
だが疑問は続く。ならばなぜ、結果として湛智流は権威となりえたのだろうか。『弾偽褒真鈔』が書かれた時点では、浄心流をはじめとする保守派が湛智流を排斥していたことが窺えるが、事実として、大原声明は数代を経ずしてすべて湛智流となっている[※10]。湛智流が良忍由来の正統性を保証するものであるかは別として、湛智流の内の正統性はいかにして担保できたのか。伝承された声の峻別、という不可能性はいかにして解決されたのか。

ここで補助線を引こう。
人類学者の川田順造は、オースティンのものをはじめとする言語行為論に対し、以下のように述べている。
 


私は発話行為を、(一)情報伝達性、(二)行為遂行性、(三)演戯性の三つの側面から捉えるべきだと思う。あらゆる発話行為にはこの三側面が混在している。情報伝達性の強いものは使者の伝言、ニュース、学術報告等であり、そこでは情報の「新しさ」と「真偽」が問題となる。行為遂行性の比重が大きい儀礼言語(唱え言、祝詞、宣誓など、特定の場で声にして発することに意味がある言述)では、発話者及び発話の場の「適格性」が重視され、演戯性が大切な、昔話、古典落語などくりかえし享受される言述においては、「感興」が求められる。
このうち、行為遂行性については、ジョン・オースティンが、「行為遂行性発話」(performative utterance)という概念を用いて理論化を試みたが、しかし彼のとりあげている事例はすべて、文字化しても差し支えないようなものばかりで、音声言語の超文節的側面はまったく留意されていない。その後のオースティン批判や継承的展開においても、声の韻律性、心情的伝達力、発話行為の演戯性がかえりみられていないのは、不可解でさえある。
[※11]


オースティンらの言語行為論は、それが日常的な発話行為を主な分析対象としているのにもかかわらず、声の「聞こえ」を重視していない。しかし、たとえば、「誓います」という発話は、どのような声色で発するかによって、その言葉遣い以上に発話行為の成否も、意味合いをも大きく左右するだろう。また、古典落語や浪曲あるいは昔話のような、情報としては新しさのない同一の言述を繰り返し聞かせ、受信者に特定の働きかけを意図するわけでない、声色そのものを楽しませるような発話行為はどのように捉えるべきなのか。
川田はそこで、発話行為の第三の側面として、音声の超文節的な側面である「演戯性」なる存在を指摘する。それは発話行為が音声でなされる限り不可避に含まれる、声の「聞こえ」を指す。続く箇所で、彼はその内実として「馴れと新しい刺戟、予期への適合と予期からの逸脱」、あるいは「予期からの逸脱が全くない場合でも、反復享受が何の感興ももたらさなくなる代り(原文ママ)に偏愛がつよまるという、一種の“中毒症状”」を指摘している[※12]
音声による発話行為は、反復されるたびに、あるいはそこに反復が発見されるたびに、「聞こえ」による感興が更新される。つまり演戯性とは「発話という演奏」の効果を述べたものだと理解できるだろう。

発話行為には常に、「(一)情報伝達性」、「(二)行為遂行性」、「(三)演戯性」の側面が含まれている。このうちのどれかが強調されるかに応じて、聴取者は「(1)情報の新規性や真偽」「(2)発話者やその場の適格性」「(3)感興」をそれぞれに評価する。以上を踏まえつつ『弾偽褒真鈔』での論争を振り返るなら、これは、行為遂行性の評価軸である「適格性」において争われた論争であるといえよう。
光覚は湛智の朗唱が儀礼の行為遂行性において適切でないと物申し、その理由として、演戯性の比重に傾いたことで、情報伝達性をないがしろにしたものだと指摘する。対して宰円は、演戯性と情報伝達性のシーソーゲームそのものを崩す。情報伝達はそもそも忠実に遂行できず、伝達する過程で演戯性の流入は避けられないとする立場だ。それどころか彼は、現に正統性が担保されている僧侶の朗唱にも、伝統的な朗唱や博士からの逸脱をも指摘している[※13]

『弾偽褒真鈔』がなぜ興味深いか。
それは、伝承の正統性をめぐって対立する浄心—光覚と宰円の両陣営が、ともに「声」の伝承それ自体に「個性」が現れて「しまう」ことを認めているように読めるからだ。それは、「演戯性」の概念自体にさらなる検討をうながす。
実のところ、朗唱に含まれる声の記述不可能性・再現不可能性において、正確な伝承とそうでないものの区分自体を打ち崩そうという宰円の動機自体が、川田が「演戯性」なる概念を提唱した動機と重なるところがある。さきほど触れたように、この概念はオースティンが提唱した言語行為論への批判的応答として現れているからだ。
オースティンの述べた言語行為論は、あらゆる発話行為を記述的あるいは事実確認的、そして行為遂行的なものに区分することを企図したものだ。川田はこれに対し、発話行為の分析であるにもかかわらず声の「聞こえ」の効果について考慮がないことを指摘し、新たに第三項目としての演戯性を提唱したのだった。それは、オースティンの興味では積極的に扱えない無文字社会の発話行為や土着的な芸能の分類・分析のためなのだが、しかし、それは同時に、情報伝達性/行為遂行性の切断的な区分そのものを疑うものでもあった。
引用部においても強調されているように、「あらゆる発話行為にこの三側面が混在している」としていることに着目せねばならない。無声的な概念に対し、超分節的な声の側面として演戯性を導入していることも鑑みると、この議論の要点は、あらゆる発話行為はそれが音声によって試みられるかぎり、情報伝達性/行為遂行性の区分が演戯性において連続するとした点にある。宰円の試みた反論は、川田の術語にならえば、情報伝達的な(譜面通りに正しく読む)声にも、行為遂行的な(相応しい者として読む)声にも、不可避的に演戯性が忍び込み、両者の評価は混乱をきたし続ける(譜面通りに読んでいるのに正統派から外れる/正統派とされる人間も譜面通りに読めていない)との指摘のようにも読めるのだ。
それだけではない。口伝・記譜による伝承は演戯性が不可避に流入するものであるとした宰円の立場は、さらに敷衍すれば、演戯性と不可分の伝承を前提にした口伝・記譜の可能性をみることができるのではないか。それは、演戯性そのものの伝承可能性をも示唆するだろう。

「演戯性」を再解釈しうる補助線を得たところで、最後に、ふたたび天台声明における博士と正統性の関係について再考したい。宰円は口伝と博士の根源的な「不信」をあらわにしたが、にもかかわらず湛智流がのちの権威となったのはなぜか。
言い換えれば、記述不可能・再現不可能な声の「聞こえ」である演戯性を、どのように系譜化できたというのか。

声をかく

考えるヒントは、記譜法の変遷にある。
天台声明において、その楽譜である「博士」は、線の向きで音高を表記した「五音博士」と、旋律の動きを線の動きで表現した「目安博士」の二つが主だったものとして知られている。五音博士の楽理は、湛智が書き記した楽理書『声明用心集』に図示されており、この博士が生まれた契機とみられている。しかし、現在天台声明で用いられているのは後者だ。
湛智の『声明用心集』による楽理の体系化は雅楽理論によっておこなわれた。本書が五音博士が隆盛する契機であったとされている。五音博士は音高の再現を重視したものであり、絶対音高への意識が強い彼の楽理にかなうものであるからだ。にもかかわらず、その後の博士は波線の動きを強調した、旋律型を伝えることに比重をおく目安博士にうつってゆく。
この変遷については、一部の音を表記するのに、五音博士では対応できないからだとも、五音博士では空間的な広がりを持つ曲線を含む図形的なダイナミックさに欠けるためだとも解釈されている。大内はこの双方を紹介しつつ、「声明という音楽表現にとって、絶対音高はもちろん関与性の高い点だったが、もっとも肝要なのは塩梅音を含んだ微細な旋律の動きであり、旋律をつくる単位である旋律型の正確な再現であったといえよう」と総括している[※14]
塩梅音とは、博士において指示されている声の抑揚のひとつだ。その定義は曖昧を極め、音高の変化、長さや音の移りのタイミングとしか表現しようのないものだという。塩梅音は、天台声明においてもっとも重要かつ表記困難な旋律の要素として、口伝によって継承されるものとして位置づけられている[※15]

しかし興味深いのは、いずれにせよその「旋律(型)の表記」の重要性が、音高の表記が整えられたことで見出されたことだ。記されたことで、記されないものが発見される。目安博士においても「塩梅音」は表記することができず、いっそう重視されることとなる。
大内は「精緻な記譜法が工夫されればされるほど、また、口伝書において実唱についての技法が綿密に記されれば記されるほど、そこに盛り込むことのできない要素の存在が際立つことになる」と述べる[※16]。 さらに続いて、大内はウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』を引き合いに出しつつ、このように述べている。
 


ここでは、「記す」ことは伝承者から伝承される中身を切り離す、というオングがいう図式は成り立たない。「記す」行為は、むしろ生身の伝承者から決して切り離すことのできないものの存在を、否定しようのない説得力を持ってつきつける。実唱の価値を根本的に左右するものは、伝える者のわざとして、伝える者の中に身体化されている。それは譜や文字に置きかえることのできないものであり、伝える者の身体から伝えられる者の身体へと直接受け渡されていくしかないものである。こうして、声明の実唱、伝承における「記されない」ものは、記されないが故に容易に獲得することのできないものとして権威づけられる。同時に、それを「わざ」として自らの身体のうちに取り込んでいるわざの修得者の権威をも高めることになる。[※17]


きわめて重要な指摘である。大内はここで、複製可能で通時的なものとなる文字文化に対し、複製不可能で共時的な声の文化として、朗唱の一回性を擁護しているわけではない。大内が述べているのは、博士によって「記されない」ものが焦点化することで口伝の権威性を高めるという逆説である。声が「記される」ことで、「記されない」ものの拠点が同時に明らかになり、焦点化した記述不可能な部位が権威の根拠とされ、そのうえでヴェールに覆われた口伝が「一回性の伝承」というパラドックスを解決する。大内が分析しているのはそのようなメカニズムなのだ。
『弾偽褒真鈔』と、先の節で再解釈した宰円の主張を思いだそう。浄心流は湛智流に対し、正統さから逸脱する朗唱を警戒した。そして宰円はこれに対し、川田の術語にならえば、口伝や博士に不可避的に流入する演戯性について指摘し、朗唱の記述不可能性と再現不可能性をあらわにした。しかし大内の指摘を踏まえると、湛智流は以上の状況のうえで、絶対音高への意識を高める記譜法によって、「記されない」ものの位置を旋律型に焦点化した側面が明らかになる。つまり、主観的に記述、伝承されるしかない声の超分節的側面=演戯性のエリアを仮設的に限定したことで、権威の根拠を外縁に示し、伝承経路を遡行可能なものにしたのではないか。

五音博士が旋律への意識を高め、目安博士によってもなお塩梅音の記述不可能性が解決しないという記譜の経緯にまつわるジレンマには、「権威化された口伝」によって補填される「記せなさ」の限定こそが伝承されている、という逆転が現れている[※18]
つまりここでは、声の部分的な記述によって声の記述不可能性が見出される、という逆説的な再解釈の方向性に対し、特定の記譜法によって重みづけがおこなわれている。記述不可能かつ再現不可能な演戯性が立ち上る、その部位の限定こそが、発声者—聴取者の双方に共有可能なかたちで記されているのだ。
以上のようにして、演戯性の流入による系譜の混乱、そして演戯性の伝承の系譜化は解決されたのではないか。

声をよむ、声でかく

 
以上の考察を踏まえ、冒頭の問いに戻りたい。
私たちは、「交換喩」の働きがオースティンの述べるような発話行為の効果にも影響を及ぼすということと、個別の発話における声色が関係線の交換を操作しうることに着目し、「交換喩」における声色のはたらきについて問うことから始めた。
結論から述べよう。声の「聞こえ」はそれのみで「交換喩」の効果を操作することはできず、制御もできない。それが系譜上の正統/異端であれ、発話行為における情報伝達的/行為遂行的効果であれ、つまり「声—字」/「声—身体」の峻別は、声の「聞こえ」あるいは「演戯性」がなし崩しにしてしまう。しかし、発話者の演戯性における反復/逸脱の感受を共有するテクスト(原稿、博士)の存在が担保されたとき、その「声」は任意の交換を操作しうる。さらには遡行可能な経路を構築しうる。「声色」が交換手たるオペレーターであるには、やはり明示的な指示書が必要なのだ。

これまでの考察からは、二点の重要な示唆が得られた。一つ、「声」は個々人の音声の記述不可能な演戯性と、内に含まれたテクストの混在によって関係線を集め、交換している。二つ、あらゆる発話行為においてテクストに演戯性は流入するため、したがって演戯性もまたテクストを内に含むことで伝播されうる。
記述不可能な声の「聞こえ」である演戯性が伝播しうるという観点は、決して突飛なものではない。定義上その効果は、音声に潜在する反復の発見と深い関わりがあるからだ。いっけんランダムで操作不可能なこの効果は、すでに述べたように、明示的なテクストの引用である程度の重みづけを試みることができる。そして、このテクストの「明示性」は、必ずしも身体の外におかれたものに限らないだろう。私たちにとって、特定の人物のセリフを暗唱、あるいはそのひととなりを誇張したような話し方を、音声のみの情報で楽しむコミュニケーションはありふれている。演戯性のもたらす感興には、反復—引用が含まれている。つまりこの概念には、「声色の引用」を考える契機が含まれている。
それだけではない。川田順造は、オースティンのものをはじめとする言語行為論、ひいてはソシュールのものをはじめとする西洋言語学が、声の超文節的な側面について考慮が欠けていることに不満を唱え、声の演戯性を提唱した。しかし実のところ、この概念の内実はのち様々な講演やエッセイにおいて断片的に説明されるばかりで、アイデアスケッチにとどまっているようにも思える。彼がこの概念を得るに至り、「非西洋文字圏」のケースとして好んで分析したのは、声明を含む「語り物」の系譜につらなる儀礼・芸能と、そして彼自身がフィールドワークをおこなったアフリカの無文字社会における歴史の共有であった。
つまり、彼の議論における「発話行為」とは、文字をもたずして事実や歴史を記録する側面も念頭におかれている。個人ないし共同体の記憶を保持するためにおこなわれる、声の演戯性による「記述」である。この連載ではとくに、演戯性に含まれた「中毒性」の効果として彼が名付けた「声のイドラ」なる概念に注目したい。
——今すぐ避難、今すぐ避難。絶叫の声色とあわせて、特定のフレーズが耳に残る。

私たちはこれまで、「字を読む」ことと「声をかく」こととを分け、前回は両者をとりむすぶ「字を読む」声を、今回は「声をかく」ことについて考察した。だが、ここで問いのアプローチを変形させる必要が出てきたように思う。
交換喩のはたらきに作用する声の「聞こえ」は、「字」の前にあるものでもなく、「字」の外にあるものでもなく、別なる「字」のようにも現れる。であるならば、以下のように「声」への問いを続けたい。
私たちは、いかにして声を読み、声で書くのか?

批評家のロラン・バルトはフィッシャー=ディスカウとシャルル・パンゼラという二人のオペラ歌手のレコードを聴き比べ、その印象の差異をつくる「声の肌理」という概念を提唱した[※19]。 声には個人の身体を肉感的に喚起する感触がそなわっており、その「聞こえ」は個々人の記憶に強く依拠しているがゆえ、客観的に記述することができない。声の超文節的な特徴を、記述不可能で、かつ個々人の発声者(あるいは聴取者)のうちにあって不動のものだとする、代表的な概念だ。
本論で引用した川田や大内の議論が興味深いのは、その不動性を再検討するものであるからだ。次回はさらに、個々人を超えて再生産される声の「聞こえ」について論じたい。川田順造の議論には、彼と同じくオースティンに厳しい批判を向けた哲学者ジャック・デリダの議論と深く共鳴しているところがある。
西洋哲学史の「音声中心主義」を暴露したデリダと川田の「声」の議論をたずさえ、声明における「声」観の、さらなるハードコアへ向かうとしよう。安然、空海へと。

 

[※1] 気象庁のウェブサイトに記載された以下の情報で確認した。
「令和6年能登半島地震の関連情報」、国土交通省気象庁ウェブサイト、2024年1月6日公開(閲覧時:2024年1月31日)、URL:https://www.jma.go.jp/jma/menu/20240101_noto_jishin.html

[※2] 「「今すぐ逃げること!」NHKアナが大声で避難呼びかけ視聴者の「自分は大丈夫」バイアス打ち破る」、読売新聞オンライン、2024116日公開(閲覧時:2024131日)、URL:https://www.yomiuri.co.jp/national/20240116-OYT1T50105/ 

[※3] ジョン・L・オースティン、飯野勝己訳、講談社学術文庫『言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか』、2019年 

[※4] 岩田宗一、『声明は音楽のふるさと』、法蔵館、2003年、46頁 

[※5] また、『弾偽褒真鈔』の本文については以下に収録された文献も参考にした。
武石彰夫、「仏教歌謡資料としての「弾偽褒真鈔」」、「東洋研究」第30号、1973年、55-80頁


[※6] 岩田宗一、『声明の研究』、法蔵館、1999年、51頁


[※7] 同書、52頁

[※8] 同書、57-58頁


[※9] 同上

[※10] 同書、48頁

[※11] 川田順造、文庫版『聲』、筑摩書房、1998年、275頁

[※12] 同書、276頁

[※13] 岩田、同書、57頁

[※14] 大内典、『仏教の声の技 悟りの身体性』、法蔵館、2016年、114頁

[※15] たとえば、塩梅音については以下のような記述がある。
「装飾的かつ導音的な音で、天台声明ではとくに意識して唱え、重要な位置づけがなされている」(天納傳中、『天台声明 天納傳中著作』、法蔵館、2000年、49頁)
「真言の覚意は口伝を受くべき(原文ママ)ものの一つとして塩梅をあげているように、詳細に記述はされずとも重要視されていた」(横道萬里雄・片岡義道、『声明体系特別付録 声明辞典』、法蔵館、1984年、89-90頁)

[※16] 大内、同書、118頁 

[※17] 同上、118頁

[※18] 『声明用心集』の「ユリ」に関する記述は、「声」の定義についての観点からも重要な示唆が得られるのだが、その考察は次回以降に機会を改めよう。

[※19] 
ロラン・バルト、沢崎浩平訳、「声の肌理」、新装版『第三の意味』、みすず書房、1998

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黒嵜想(くろさき・そう)
1988年生まれ。批評家。極セカイ研究所所長。批評誌『アーギュメンツ』(2015~2018)での連載・編集をきっかけとして活動開始。現在、音声論を主題とした書籍『ボイス・ロンダリング(仮題)』と、南極大陸を主題とした雑誌『P2P』ならびに論考「極論」を準備中。また、各ポッドキャストにて「ボイスメモ(3600±600)」を配信している。

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