【連載】遊のこころ~日々を遊戯三昧に生きる~|(1)内に秘めたる仏心


「遊びをせんとや生まれけむ、戯(たわむ)れをせんとや生まれけ、遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。」(『梁塵秘抄』巻二)

我々はほんとうは、遊びをするために生まれてきたのではないだろうか、戯れをするために生まれてきたのではないだろうか。無邪気に遊んでいる子供たちの声を聞いていると、大人になった我が身までも心動かされて、ついそう思ってしまう、と。

『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は、平安時代の末に、人々の中で歌われてきた今様(いまよう)歌謡を、後白河法皇(1129―1192)が編纂(へんさん)したものである。当時の貴族や僧侶、一般庶民が歌ったもので、これを読むと昔の人々の心にも、現代人に通ずるものが多いことに気づかされる。

仏教では「遊戯三昧(ゆげざんまい)」といって、如来の悟りの境地を現した言葉がある。子供のように無心に遊び戯(たわむ)れている心が、そのまま如来(仏さま)の真実の心だというのである。三昧とは一つのことに集中して余念のない心をいうが、この語の場合は何物にも捉われない自由自在な心をいう。仏は三昧になって遊び戯むれているだけなのに、その心に人が触れると、かえって自らの内なる自在な心(仏心)に気づかされてしまう。そして我々が今ここに在るのは、久しく遠い無限の過去から、生まれ変わり死に変わりして如来の大誓願に与ってきたことに因るものだったと悟らされる。大乗仏典の『法華経』の中では、この事がくり返し説かれている。如来の大誓願とは、「自分と同じ智慧の心を、人々にも同じように悟らせてゆく」というのである。

だれにも遊戯三昧の心がある

無心に遊び戯れている子供心が、どうしてそんな大誓願に与ってきたことになるのか。そこには、人々を救わねばならぬというような、計らいの心がないからである。たとえば子供が遊んでいる姿を見ると、大人たちもつい己の憂いや悩みを忘れて、心癒(いや)されているときがある。子供に「自分たちの遊びを見たら、だれでも嬉しくなるはずだろう」などと言われたら、かえって見たくなくなろう。そんな風に人を責めたり自慢したりするような心がない。ただ無邪気に遊んでいるだけの心だから、その姿を見て、思わず知らず大人が癒されている。仏の遊戯三昧の心もそんな風である。

もっともこの頃の、スマフォゲームに夢中になっているような子供心ではない。昭和四十年代頃までの子供なら、大抵、野山を走り回って遊んでいた。遊び道具など何もなかった代わりに、木や草や花や虫、鳥や魚など、自然にあるものすべてが遊び道具だった。そんな時代の子供心である。こんな心なら、人類が始まって以来、世界中の子供に見ることができたものである。

『法華経』の言葉には、またこんな言葉もある。釈尊が弟子の舎利弗(しゃりほつ)に説かれた。「真実の法は一仏乗のみである。その他に真実の教えはない。私はその事実を知らしめて、すべての人々に種智(しゅち・存在の根源に具わった智慧による真実心)を悟らせようとしているのです」(方便品)と。一切衆生を存在の根源から救ってゆく一つの乗り物がある。仏はこの乗り物にすべての生きとし生けるものを乗せて、残らず仏と同じ智慧の心に至らせようとしている。そのために無量の方便をもって説き続けているのです、と。

我々が子供心に癒されるのも、実はその時、子供と同じ真実心の乗り物に乗せられたからである。だれも仏と同じ乗り物の中にいる。我々がみな内心に真実を願うのも、この故である。人生を嘘に染めて生きたい者など、一人もいない。ただ日頃は、その願いに気づかないでいる。だから時に、子供の遊び戯れる姿を見ると、ふと我が心の種智に触れる。それで思わず知らず、子供と共に真実心の乗り物に乗せられている。

一無位の真人として誕生した

遊戯三昧になっているとき、我々は自分が遊戯(ゆげ)していることに気づかない。気づくようなら、真実の三昧になっていない。気づかないから、心は自(おのず)から真実になっている。そんな心がだれにもある。

たとえば「オギャー」と生まれたとき、我々は三昧の心で飛び出してきた。生まれた後の人生を思って、地位や職業や宗教や哲学、思想や主義などを案じながら生まれた者は、まだどこにもいない。みな無垢な一無位(むい)の真人(しんにん)として誕生してきた。だから大人になっても、ぐっすり寝込んでいるときは、赤ん坊と同じ真人になっている。夢も見ないで寝た朝は、目覚めた心も真っ新(さら)になっている。だが、あれこれ迷いながら眠った朝は、身体も心も重い。

仕事に我を忘れているときも、自ずから真人になっている。働くことが面白くて、自分が夢中になっていることにも気づかないでいる。

我々が日々に遊戯三昧を経験してきたことは、このようである。日々の暮らしの中で忘れているときも多いが、それでも子供の遊ぶ姿を見ると、つい心動かされて、「遊びをせんとや生まれけん」と思う。忘れていた内なる心が、呼び出されているのである。

本連載では、事々物々に現れる遊戯の境地を綴っていく。

********

形山 睡峰(かたやま すいほう)
昭和24年、岡山県生まれ。昭和48年、京都・花園大学を中退して、東京・中野の高歩院、大森曹玄老師の下で参禅を始める。その後、出家得度して臨済宗の末僧となる。昭和63年、茨城県出島村(現かすみがうら市)岩坪に菩提禅堂が建立され、堂長に就任。平成19年、かすみがうら市宍倉に「無相庵・菩提禅堂」を開創。庵主として現在に至る。主著に『禅に問う 一人でも悠々と生きる道』(大法輪閣)、『心が動く一日一話 人生コラム』『禅と哲学のあいだ 平等は差別をもって現れる』(佼成出版社)、『非ずのこころ』『和するこころ』(エイチエス)がある。

********