【連載】遊のこころ~日々を遊戯三昧に生きる~|(3)今日一日を神様におまかせします


松居桃楼(まついとうる・1910-1994)が、東北のある町へ講演にゆくと、話が終わったあとで一人の婦人がやってきて、相談を受けた。それは「毎朝教会に通って礼拝し、お祈りをしたいと思っていますのに、家が忙しくて参れません。せめて家で一人でお祈りしたいと思いますが、お祈りの本を見るとあまりに種類が多く、また長くて全部をやっていられません。どうしたらよいでしょうか」というものだった。

彼は答えていった。「今日一日を神様におまかせします――というお祈りを、朝目が覚めたときに床の中でなさい。そのお祈りが本気でできたなら、あとのお祈りはしなくても結構です。教会にゆかなくても心配いりませんよ」

婦人は大変喜んで帰っていった。その後、三年ぐらいしてまたその町に講演にゆくと、その婦人がニコニコしながら訪ねてきた。

「あれから毎朝、教えらえたとおり、目が覚めるとすぐに、今日一日を神様におまかせします、とお祈りしています。するととても気持ちが良くて、すがすがしくなるのです。相変わらず多忙で教会にゆく暇もありませんが、私は今ほんとうに幸せです」

キラキラと輝く目でそう言われて、彼はすっかり驚いてしまった。

(『天国ははだか』柏樹新書からの要約)

松居桃楼は昭和25年(1950)に台東区の隅田公園にバタヤを集めた街(『蟻の街』)を作って、北原玲子とともにその住民となり、その中心人物として活躍した人である。そのことが昭和33年(1958)に「蟻の街のマリア」という題で映画化され、世に知られることになった。キリスト教やイスラム教に関する著書、また禅のことや天台智顗(ちぎ)著「天台小止観」を翻訳した『死に勝つまでの三十日・小止観物語』(柏樹社刊)などの著作がある。因みにバタヤとは「屑屋(屑拾いをする者)」のことで、今でいう「廃品回収業者」である。もっとも当時は、屑物を売っても大したお金にならなかった。 

太陽は我が命の賜物

私は日本が戦争に負けて終わった四年後に、岡山の北にある小さな村で生まれた。昔、平家の落人(おちうど)が隠れ住んだとも言われる地で、深い山の中にある。そんな所にも、時に浮浪者がやってきて物乞いをした。母が彼の携える弁当箱に残りご飯を詰めてやると、それだけでとても喜んで去っていった。戦後間もなくは日本中が貧しく、多くがこんな風に飢えていた。都会では、バタヤをやるほかに生きる術(すべ)の無い者もいたのである。

当時、我が家の近所に、朝起きると必ず太陽に向かって柏手を打ち、拝礼を為している小父(おじ)さんがいた。面白いことをする人だと見ていたが、成人して禅道場で修行するようになって、ある日ふと、その小父さんのことを思い出した。禅道場の日課は、未明に起きて坐禅や読経を為し、日中は畑仕事に精を出す。夜はまた坐禅をして終わる。朝は祈り、昼は働き、夜寝る前は内省して終わるという日々である。田舎の小父さんの、朝太陽を拝んでから百姓仕事に出るのと、あまり変わらない。そう思って初めて、太陽に向かって礼を為すことの意味に気づかされた。

小父さんがどう思って拝んでいたかは知らないが、昔の人々は太陽を神様と同じように思って尊んでいたのだ。太陽のお陰で米や麦がよく育つ。地上の生きとし生けるものは、みな太陽のお陰で生かされている。太陽は我々の命の賜物(たまもの)と思われてきたのである。他国の厳しい自然環境と違って、比較的穏やかな気候の中に生まれ育ってきた日本人は、そう感じてきた。だから信じる神様も、中心は天照大神(あまてらすおおみかみ)で、太陽神の化身である。人々は日々に太陽を拝むことで、一日の平安を祈り、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈り、太陽のように心を赤々と純一になすことで、神様の恩恵に与(あずか)ろうとしてきた。

我が赤心をもって、相手の腹中に置く

そう言えば、昔から嘘偽りのない真心のことを「赤心(せきしん)」と呼んできた。赤々はまた明々(あかあか)の意味である。どこにも邪(よこしま)な心のない、明(あき)らかな心のことである。また「我が赤心(せきしん)をもって相手の腹中(ふくちゅう・胸中のこと)に置く」とも言ってきた。自(みずか)らの嘘偽りなき明らかな心をもって、相手の腹中の嘘偽りなき明らかな心に対してゆくとの意味である。

こちらが邪心をもって対すれば、相手も邪心でもって応じてくる。こちらが赤心で対すれば、相手も赤心で応じてくる。人間関係は、たいていこのようである。

だからもし、自らの腹中に「赤心」を見出した者は、自分にも他人にも神様の恩恵が及んでいたことに気づかされる。「こちらは真心で正直に対したのに、相手が少しも誠意をもって答えてくれない」などと言うのは、まだ「赤心」が充分に自覚されていない。松居桃楼の言葉を実行した婦人は、神様のお陰を受けないような日々は無かったことに気づかされた。輝くような笑顔は、そのことの証(あかし)だった。

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形山 睡峰(かたやま すいほう)
昭和24年、岡山県生まれ。昭和48年、京都・花園大学を中退して、東京・中野の高歩院、大森曹玄老師の下で参禅を始める。その後、出家得度して臨済宗の末僧となる。昭和63年、茨城県出島村(現かすみがうら市)岩坪に菩提禅堂が建立され、堂長に就任。平成19年、かすみがうら市宍倉に「無相庵・菩提禅堂」を開創。庵主として現在に至る。主著に『禅に問う 一人でも悠々と生きる道』(大法輪閣)、『心が動く一日一話 人生コラム』『禅と哲学のあいだ 平等は差別をもって現れる』(佼成出版社)、『非ずのこころ』『和するこころ』(エイチエス)がある。

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