遊のこころ~日々を遊戯三昧に生きる~|(6)心の大切さはどう知るのか

 

お酒に酔ったある会社の社長さん、「人間心が大切なのだ、心がよく分からない奴は何をしてもダメだ!」と何度もくり返して言う。私はそこで「心とは何ですか」と訊いた。ところが、「ナニ、心は心だ。坊主のくせにそんなことも知らんのか」と怒鳴られてしまった。

産卵の近づいた海亀は、砂浜に上がって善き岩陰を見つけると、そこに穴を掘って卵を産む。ウンウンと唸(うな)りながら、涙を流しつつ産卵する姿を、私もテレビで観たことがある。産み終わると、亀はその卵の盗まれることを恐れ、何度も砂をかけて隠す。更には海に帰ってゆく自分の足跡も隠そうとして、尾で跡を掃きながら帰るのだという。ところが人間にとっては、この掃いた跡こそが亀の卵を得る一番の道しるべなのである。

古来禅者は、どんなに正しい道理を説くことができても、正しさの跡が残るようでは本物ではないと言って、この亀の例を引き、人々に反省を促してきた。

「よく知る者は、言わず語らず」と言う。真実の正しさなら、言わずとも自ずから現れてゆく。よく知る者はそのことを知って、わざわざ語らない。語って勘違いされることの方を、むしろ恐れるからである。この社長さんも、「心とは何か」ということを、ほんとうはよく知らなかったのだろうと思う。

世の中には自分の考える正しさを主張しなければ、社会が正されないように思う者がある。しかし正しいことも人によって異なることは多い。自分の正しさを言う者は、自分に反対する者は悪しき者と思いたい。だが悪しき者にされた方からすれば、自分の正しさを否定する者の方が悪しき者と思いたい。人間同士の行き違いは、たいていこの事実に気づかぬことで起きる。だれも自分の経験知から物事の善悪を判断しようとするからである。

真実の正しさなら、全人類に共通する正しさでなくてはならないだろう。だが、この共通の正しさを見出すことが、人間には一番難しいようである。

赤信号もみんなで渡れば怖くない

歴史を顧(かえり)みては、「どうして人間はこんなに非道なことばかりしてきたのか」と憤慨する人がある。私が「みな正しいことを為そうとするからだ」と答えると、「正しいことを為そうとして、こんな悪い世の中になるはずがなかろうと」言って、怒る。だから私は、「嘘をつく人は、自分が真実を言っている者と思われたい。嘘つきと思われたくないから、嘘をつくのだ」と答える。この世に生まれて、自分のことを他人から悪者のように言われて生きたい者は、一人もいない。みな本心は善き人と思われたいのである。ただどうしたら善き人と思われる生き方ができるのか、それがなかなか分からない。それでつい、人が信じてくれそうな嘘をつく。また誰もが賛同している考え方に、本音は反対していても同調しておこうとする。「赤信号もみんなで渡れば怖くない」というのは、この心である。しかし一つ嘘をつくと、次々に嘘をつかねばならぬことにもなる。また多数が正しいと主張することが、後になって最も悪しきことになったりもする。人類の歴史はこんな事実がいっぱいである。だから古来、「正直であれ」と言われ続けてきた。だが正直に生きることは、ほんとうはとても難しいのである。

会社員が嫌いな上司のことを正直に「嫌いだ」と言えば、まずその上司がいる間は、出世は見込めない。「それなら辞めろ」と勧められるかも知れない。内心は嫌いでも、好きなふりをして勤めているのは辛い。自分に正直になって、もう少し心軽やかに生きるには、どうしたらよいのかと、そう思っている人も多いと思う。

いのちを頂いている

子供の養護施設で働く女性が、あるとき禅堂の宿泊修行に参加した。帰ってから手紙が届いて、その中に食事のことが書いてあった。

「施設の食事は種類もたくさんあって、いっぱい食べられるのに、子供たちはいつも『まずい』と言います。禅堂の食事は種類も少なく粗食でしたが、おいしかった。満腹しました」

禅堂の食事は精進料理で一汁一菜、味噌汁とおかず一品とご飯だけである。

「音を立てないように、音を立てないようにと集中しているうちに、今私はこの食べ物を頂いているのだという思いがしみじみするのです。今までは食べていながら、食べていなかったような気がします。あんな食べ方をすると、その食べ物と共に、野菜が実るまでの働きや、大地や太陽の力、そして作った人の気持ちまでも一緒に味わったように思えます。だから、少しの量でも満足できました」

食べるとき音は決して立てないで、無言で食べる。器に取ったものは残さない。背筋を立て、食べることだけに集中して頂く。禅堂では特にこの三つを大切にする。

「食べる方も、いのちを頂いているのだと気がつけば、食べ物のいのちも生きるのではないだろうか。動物や植物の生きているいのちを、人間は奪って、殺生(せっしょう)しながら生きてきたのだから」と。そのとき二十歳だった人の感想である。

楽しく食事をするというようなものではない。だが食べ物への感謝は自ずから生まれてくる。社長さんも、心の大切さは、こんな日常のささやかな行為を大事に扱うことから始まるのだということを知っていたなら、「心の大切さがよく分かっていない奴は、何をやってもだめだ」などと、大声で言う必要はなかっただろう。

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形山 睡峰(かたやま すいほう)
昭和24年、岡山県生まれ。昭和48年、京都・花園大学を中退して、東京・中野の高歩院、大森曹玄老師の下で参禅を始める。その後、出家得度して臨済宗の末僧となる。昭和63年、茨城県出島村(現かすみがうら市)岩坪に菩提禅堂が建立され、堂長に就任。平成19年、かすみがうら市宍倉に「無相庵・菩提禅堂」を開創。庵主として現在に至る。主著に『禅に問う 一人でも悠々と生きる道』(大法輪閣)、『心が動く一日一話 人生コラム』『禅と哲学のあいだ 平等は差別をもって現れる』(佼成出版社)、『非ずのこころ』『和するこころ』(エイチエス)がある。

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