遊のこころ~日々を遊戯三昧に生きる~|(7)絶対のものは、言葉にできない

 

「オギャー」と生まれるときの「いのち」には、まだ何宗というような宗派はない。だれも自然から与えられた力だけを使って、生まれてくる。そして、どんな「いのち」も、最初は赤ん坊として生まれる。動物や魚や昆虫も同じである。赤ん坊の姿で生まれ、徐々に大人になってゆく。そんな「いのち」の在りように、信仰の有無は無縁である。宗教心は生まれて以後の、人の自覚の中に見出されてきたものだからである。

太古の昔、自然は宇宙空間に無量の星々を生んだ。いま夜空に見る天の川は、銀河系を地球から見たものである。そのなかに太陽系もあって、我々の住む地球はその太陽系に含まれる星の一つである。

地球上に生命体が生まれるためには、必ず太陽の働きが必要となる。太陽と地球との距離が、生命体を維持できる条件に適っていたことが、地球上に生命体が現れていることの一番の理由だという。地球より太陽に近い星(水星や金星)は光に当った場所が高熱になり、生命が焼滅する。遠い星(火星や土星など)は、太陽の陰になった場所はみな氷土になり、生命は凍滅する。我々の地球に生命体があるのは、生命を維持するに適度な温度と空気と水が保たれてきたからだという。宇宙には銀河系のような巨大体系は無量にあるが、まだ地球以外に、このような条件に適う星は見出されていないという。私はそのことを、町のプラネタリウム館で教えられた。

無論このような巨大で無限な宇宙の成り立ちに、宗教心は無縁である。地球が宇宙に誕生したのは五十億年以上も前とされ、その地球上に人間が誕生したのは、まだ十万年も経っていないからである。

天上天下にただ我れ独り尊い


仏教の逸話には、お釈迦様が生まれたとき、すぐさま立ち上がって七歩進み、一方の手は天を指さし、他方の手は地を指さして、「天上天下、ただ我れ独(ひと)り尊い」と叫んだという話がある。キリスト教ではゴッド(神)が宇宙世界のすべてを創造され、最後にエデンの園に人間を創られたという物語がある。赤ん坊が生まれてすぐ立ち上がってものを言うことなどあり得ないし、宇宙創造の最後に創られた人間が、それ以前のゴッドの働き様を見ていたはずはない。またイエスが処女懐胎したり、死後に復活したような話も、人間としては絶対にあり得ないことである。しかしどの宗教にも、これと似たような奇跡の話がいくつも伝えられているのは、どういう理由(わけ)であろうか。人間が生まれる何十億年も前の宇宙を、ゴッドが創造したのだと聞かされれば、「宗教はでたらめな嘘ばかり説く。信じる者は愚かだ」と思う人も多い。

しかし永遠の宇宙時間と人間が現れたわずかな時間とは、別々の時間上のことではない。我々を生んできた創造力は、また永遠宇宙を創造してきた力の延長線上でなされたものである。だから我々もまた、宇宙創造の時間と力に与(あずか)って生まれてきた。ただその事実を、人はほとんど知り得ない。どんなに知ったように思っても、それは人間の知性上の思いである。知性の働きが及ばない処では、まったく無知である。否、無知であることすら気づかないでいる。それでも古代の人々は、我々が存在することに、何か「妙不可思議(思いはかることもできない妙なる神秘)」な力が働いているように予感した。この予感が我々に宗教を創造させた。科学の発達した時代の現代人が「宗教など信ずるのは愚かだ」と言っても、永遠宇宙の創造力に与(あずか)って生まれてきたという予感の方を信じたのである。

赤ん坊が「天上天下、ただ我れ独り尊い」と叫んだ話も、この予感から創られた。釈尊独りだけが尊いと言ったのではない。赤ん坊は皆、天上天下に唯一尊い者として生まれてくることを予感して言った。「処女懐胎」も「復活」も、宇宙的な神秘力に与らねばだれ一人生まれ得ぬことを予感した者が、こんな物語にして遺したのだと思う。

宗教の本質はみな共通している

現代仏教学のすぐれた哲学者、中村元博士(1912~1999)が、雑誌「サライ」誌上で、次のように語られていた。

「西洋にも、神は言葉では言い表せないという考えがあります。14世紀初期のドイツに、エックハルトという神秘家がおりますが、彼は『“絶対のもの”は神秘であり、言葉では言い表せない』といっています。そうなりますと、個々の宗教の観念を超えてしまうわけですね。同じ考えが仏教にもありまして、仏様の奥に、言葉で表現できない絶対の仏様があると。それを仏性(ぶっしょう)とか法身(ほっしん)といいます。イスラムの哲学者は、やはり神は言葉で言い表せないといっています。ことほど左様に、宗教は違えども、つきつめた本質は共通なわけです。こうした理解を人々が持てば、宗教上の争いはなくなり、相互理解が深まるはずなのですがね」と。(サライ『黄金の時代』1995年・小学館刊)

存在するものすべての根底に、宇宙的神秘力が働いている。自分だけの力で生きられる者は、誰もいない。だから我々は、いつも生きる意味を求めて止まないできた。「いのち」を在らしめている神秘な者に会いたくて仕方ないからである。そんな内心の願いが、人間にさまざまな宗教を創造させてきたのである。

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形山 睡峰(かたやま すいほう)
昭和24年、岡山県生まれ。昭和48年、京都・花園大学を中退して、東京・中野の高歩院、大森曹玄老師の下で参禅を始める。その後、出家得度して臨済宗の末僧となる。昭和63年、茨城県出島村(現かすみがうら市)岩坪に菩提禅堂が建立され、堂長に就任。平成19年、かすみがうら市宍倉に「無相庵・菩提禅堂」を開創。庵主として現在に至る。主著に『禅に問う 一人でも悠々と生きる道』(大法輪閣)、『心が動く一日一話 人生コラム』『禅と哲学のあいだ 平等は差別をもって現れる』(佼成出版社)、『非ずのこころ』『和するこころ』(エイチエス)がある。

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